朝比奈隆の一生
~誕生から高校まで~


複雑な出自

 1908年(明治41年)7月9日、現在の東京都新宿で朝比奈は生まれた。本来ならば小島家の三男として人生を送るはずであったが、生後まもなく養子に出され朝比奈家で育つこととなる。しかし、親のもとで育てられるのではなく、乳母とともに神奈川県国府津の漁村に預けられ、地元の小学校に入学した。小学4年時に、東京に呼び戻され麻布尋常小学校に編入したが、中学受験に有利という理由で、東京府青山師範学校附属小学校に転じた。中学進学にあたって数多くの名門中学を受験するものの、どこも不合格となり、裏口入学のかたちで私立高千穂中学校に進む。そして1922年(大正11年)3月、旧制東京高等学校尋常科2年の編入試験を受けて同校に転入学する。ここまで複雑な経歴になったのは、朝比奈家の繁栄を願ってだからだろうか。父親は異常なまでに息子の学歴に執着していた。その証拠に、旧制東京高等学校尋常科に編入した際、父は大喜びしてオックスフォードの辞典や英国製の高級万年筆を買ったほどである。しかし、親の期待とはうらはらに、当の朝比奈は勉強への興味はあまりなかったようである。

 現在ではあまり見かけない出生でいることに対して、後日朝比奈は「昔は兄弟が大勢いるならひとりください、なんてもらわれていった。そんなものですよ、無責任なね。」と軽やかな口調で語っている。朝比奈家に家族団欒の文字はなく、ひっそりとした家庭であったようである。一方で、「母親ってのは、やっぱりサンタマリアです。…(中略)…戦争で死ぬとき、男の子で、天皇陛下万歳といって死ぬ奴は一人もいないらしい。かならずお母さんといって死にますよ。僕にとってもやっぱり母親です。」(注1)と、いくら接触が少なく、十分な愛情を注がれていなかったとしても、朝比奈にとって母親の存在は大きかったことが伺える。父親のことは「会社をつくるのと子供をつくるのが趣味」と咎め、あまり愛着はなかったようである。そんな両親を高校時代に立て続けに亡くし、本当の一人ぼっちになった。早くして一人で生きていかなければならない環境に陥ったことが、これから身に起こる様々な困難に立ち向かい、指揮者として名を馳せるのに一役買ったのであろう。

 孤独に満ちた朝比奈少年を癒し慰めてくれたもの―――それが音楽だった。
 朝比奈家から近かったこともあり、麻布尋常小学校時代に小島家に頻繁に出入りするようになった。小島家は蓄音機や数多くのレコードがそろっており、朝比奈はそこで初めて西洋音楽に触れ、その魅力を知ることになる。当時、レコードは贅沢品で、サラリーマンの月収の十分の一の値段もする代物であったが、小島家ではこれを片端から聞くことができた。たちまち、朝比奈はレコード鑑賞から音楽にのめり込むようになった。演奏することで音楽の道に進む当時の演奏家たちとは異なり、音楽に耳を傾け、必死にスコアを読むという、別の道から音楽の世界に入ったのである。このことは、朝比奈の音楽づくりを考える上で重要なことであろう。また高校生の時に初めて、来日していた海外オーケストラの生の音を聴いた。一番安い席であったが、美しい音色を直接聴けたことが、朝比奈にとって強烈な体験となっていた。

東京高等学校

 朝比奈が大阪でオーケストラを創設し、その活動を率いて発展させることができたのは、ひとえに彼の豊富な人脈によるものであろう。多岐にわたる人脈を頼りに、オーケストラ経営維持のための資金調達を行った。その人脈の一つが高校時代の同窓である。朝比奈は言う、「私は音楽学校卒業ではないでしょう。音楽界のなかでは孤立しているように感じることもありました。でも、音楽家に必要なのは音楽だけでない。指揮者になるにはいろいろなことが必要になってきます。日本の音楽家は音楽家としか付き合わないからだめなのです。」(注1)と。指揮者という職業柄、孤独感に襲われることもしばしば。さらに、音楽教育を正式に受けなかったことがそれを倍加させる。また、彼はなにか人を惹きつけずにはおかない魅力を持ち合わせていた。彼の同窓には事務次官や財界の重鎮が多くおり、当時の日本を牽引する存在であった。朝比奈が自分のオーケストラで音楽を享受することが出来たのも、彼らの理解と支援によるものだろう。朝比奈自身ものちに、東京高校の友人たちの厚情が力強い心の支えになったと語っている。

 この頃、朝比奈は関東大震災の被害にあった。震災で焼け出され、朝比奈家に身を寄せていた親類のなかに、ヴァイオリンを持つ人がいた。これまで、レコードでしか聴いたことのなかったヴァイオリンの音色に朝比奈は感動し、それを見た祖母が焼け跡の中古市でヴァイオリンを見つけてきた。こうして朝比奈はヴァイオリンを手に入れることになる。音楽を聴く楽しみだけでなく、演奏する楽しみまでも得た朝比奈はさぞかし感激したことであろう。これを機に、ヴァイオリンのレッスンに通うようになり、ついには高校の音楽仲間と一緒にカルテットを組み、本格的なクラシックの世界に入ることになる。このときは、プロになろうという気持ちはさらさらなく、ただ“音楽をやりたい”気持ちが大きかったのだという。

 当時のことを朝比奈は以下のように言っている。
 「ビオラやチェロの仲間を集め、まだ満足に楽器を弾くことができないのに、ベートーヴェンやハイドンの作品をガムシャラに取り組んだ。これが私にとってプラスになったか、マイナスになったかは別問題だが、そういうむずかしい名曲にいち早く接したのは幸せだった。私はどんな楽器でも音楽をやるための手段に過ぎないと思っている。というのはどんな楽器でも不完全であり、一人で演奏し尽くすことは不可能に近い。大ぜいが力を合わせ、オーケストラと近づいていくために楽器の勉強をするのである。だから、楽器を通じてより高い音楽の目的に向かっていくことが大切であり、あるべき姿だと私は思う。」(注2)

 ヴァイオリンに興味を持つと同時に、サッカーにも熱中した。薄暗くなって球が見えなくなると、サッカー靴をスパイクに履き変えてトラックを何周も走った。朝比奈が高校時代に最も力を入れていたのはサッカーではないか、という旧友もいるほどである。その実力はかなりのもので、1932年に開かれた第10回ロサンゼルスオリンピック出場も夢ではなかったという。しかし、高校3年の秋、練習中に左ひざを骨折し、サッカーをこれまでどおりすることはできなくなってしまった。もしこの骨折がなければ、指揮者・朝比奈隆は生まれなかったのかもしれない。


 一般的な音楽家とは異なり、幼少期よりごく一般的な教育を受け、高校時代は音楽とスポーツに精を出した。しかし、彼の心の奥には誰も経験したことのない寂しさが秘められている。音楽の専門教育を受けたわけでもないのに、ここまで大成することができたのは、その背後に人間の教養や高度な思想があったからであろうか。そのために、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーといった、作曲家の頭のなかにある、音楽で表現しようとしている想いが彼には分かり、世界的な評価を受けるようになったのだろう。


注1:『オーケストラ、それは我なり』より引用
注2:『楽は堂に満ちて』より引用

【参考文献】
中丸美繪著,中央公論新社『オーケストラ、それは我なり』
朝比奈隆著,音楽之友社『楽は堂に満ちて』

文:195期HP広報部