ラフマニノフと「ピアノ協奏曲第3番」


ラフマニノフの生涯

 セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフは、西暦1873年4月1日、貴族の家系の子としてロシア帝国に生まれました。音楽に造詣の深かった一家であったようで、彼は早くにその音楽の才能を見出されました。実家が没落しても、奨学金を得てロシア音楽界の名門サンクトペテルブルク音楽院に入学するほどその才能は非凡なものであったようです。しかし、そこでの彼はとても真面目な生徒といえず、後にもう一つの名門、ドイツ・ロマン派を重視するモスクワ音楽院に転学することになります。そこではスクリャービンと同期であり、音楽院時代はピアニストとして彼と共に高く評価されたラフマニノフですが、卒業後はスクリャービンとは全く異なる音楽性を発揮し、全く異なる評価を下されていくことになります。

 ピアノ科、作曲科で共に主席となったラフマニノフは、その後数年は一定の評価を得ますが、『交響曲第一番』が不評に終わったことにより神経衰弱状態に陥り、目立った作曲活動をしなくなります。療養を経て『ピアノ協奏曲第二番』の大成功により再開された作曲活動の充実は、しかし、ロシア革命の到来によって幕を閉じます。十月革命後、家族と共に出国したラフマニノフは、故国に戻ることなく、ヨーロッパ、アメリカを主な活動場所としました。その後の彼の作曲活動は、ロシア在住時と比較して極めて低調になったといわれています。彼自身が故郷ロシアに強い愛着を持った作曲家であったことと、それは無縁ではないのでしょう。

ラフマニノフ

ラフマニノフ

 手をつけなくなった作曲の代わりのように、彼は自作の演奏を主としていた演奏活動の幅を大きく広げ、ベートーベンからショパンまでを弾きこなすコンサートピアニストとなりました。この精力的な演奏活動は、左手小指の関節痛という不調を抱えながらも彼の死の間際まで続けられたといいます。

 1943年3月28日、ラフマニノフはカリフォルニアのビバリーヒルズで、ガンのために此の世を去りました。ナチスの勢力拡大によってヨーロッパを追われ、アメリカに移り住んだ翌年のことです。彼はとうとう、再びロシアの地に戻ることはなく、第二次世界大戦のために遺志であるモスクワでの埋葬すらかなえられませんでした。

ラフマニノフとロマン派

 ラフマニノフが生きた時代、つまり十九世紀の後半から二十世紀初頭は、音楽が大きな変革を経験した時期でした。新世界アメリカでは、黒人音楽と出合った西洋音楽がジャズやブルースを生み出し徐々に市民権を得ていきました。西洋音楽の内部でもそれまでの観念から解き放たれた新たな音楽を模索していく動きが、当時の若手作曲家から起こりました。

スクリャービン

スクリャービン

 ロシアの音楽家もその例外ではありませんでした。ラフマニノフのモスクワ音楽院での同期スクリャービン(1872-1915)は、それまで強固な伝統として存在した調性を捨てた無調音楽を実践しました。自作『交響曲第五番』は、ヴォカリーズによる合唱、大編成のオーケストラ、更に色光ピアノなる新楽器を用いた大変前衛的な曲でした。また、予想のつかない調性変化や曲の展開で有名なプロコフィエフ(1891-1953)もラフマニノフの同時代を生きた作曲家として有名ですし、ストラヴィンスキー(1882-1971)は初演が今でも語り草になっているバレエ『春の祭典』以外にも、ジャズのリズムを取り入れたり、シェーンベルクの十二音技法を用いたりと積極的に革新的な音楽を生み出していきました。

 このように、ロシア音楽の新しい時代を切り開こうとした作曲家たちと異なり、ラフマニノフはそれまでの音楽の潮流――後期ロマン派に位置づけられます。ロマン派の作曲家たちの特徴として、概して三つが挙げられます。伝統的な和声の進行と半音階的な新機軸がであった結果生まれた新たな概念・調性音楽の確立と尊重、より自由になった転調、その結果である長く力強い旋律です。作曲において、チャイコフスキーの影響を大きく受けたと言われるラフマニノフは、このようなロマン派の特徴の、正しい意味での後継者でした。

ピアノ協奏曲3番におけるラフマニノフの特徴

 ラフマニノフの特徴としてあげられるのは、まずその哀愁漂うメロディです。ラフマニノフは師のチャイコフスキーと同じく、優れて親しみやすいメロディを数多く生み出すことに長けていました。優れたピアニストたる彼のピアノ協奏曲のすべてが短調で書かれ、彼の作品全体を見渡しても短調の作品が多いなど、哀愁のこもった曲を多く書いたラフマニノフでしたが、彼の甘美でロマンティックな音楽は批評家たちよりもむしろその聴衆に広く愛されました。

 『ピアノ協奏曲第三番』第一楽章冒頭でピアノによって演奏されるリリカルで哀愁を帯びた第一主題が顕著でしょう。ピアノの簡明なオクターヴによって奏でられるこの第一主題は非常に有名であり(譜例1)、様々な楽器によってこの後何度も繰り返されます。例えば、第一楽章の81小節目からのModeratoにおける、ファゴットとチェロ、コントラバス(譜例2)、第三楽章201小節目のa tempoにおけるヴィオラとチェロ(譜例3)などが当たります。この主題以外にも、ラフマニノフは優れたメロディを惜しげもなく作中にちりばめています。

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譜例1

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譜例2

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譜例3

 二つに、ピアノによるフレーズの表現です。19世紀に飛躍的な発展を遂げ、より深い表現力とオーケストラ全ての楽器にも匹敵する驚異的な音域を手に入れたピアノでしたが、息の長いメロディを表現するには楽器の構造として致命的な欠陥がありました。それは音を保持する能力がないことです。減衰する音で如何に長いフレーズを表現するか、という問いに、ラフマニノフはおびただしい数の音を並べることで答えました。それはピアノを「歌わせる」という側面において一つの模範解答と言うことができます。『ピアノ協奏曲第三番』では特にこの傾向が顕著であり、ピアノパートにおける音符の数は3万個を優に超えると言われています。少しでも『ピアノ協奏曲第三番』のピアノ譜全体を見ていただければ、その膨大な音の数に気づいていただけるでしょう。(譜例4)は、第二楽章の一部のピアノ譜ですが、非常に多くの音符が書かれていることが見て取れると思います。

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譜例4

 三つに、多声的な音楽の展開です。『ピアノ協奏曲第三番』は数多くの声部が絡み合うことで成立しています。第二楽章26小節目のUn poco piu mosso (譜例5)における多くの声部は実に複雑に絡み合っています。オーケストラにおけるそれぞれのパートが、1小節毎に異なる楽器と異なる旋律を共有しているといっても過言ではないこのような声部の多様さが、オーケストラにとってのこの曲の難しさの一つでもあります。

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譜例5


 ラフマニノフは、自ら学んだモスクワ音楽院におけるドイツ・ロマン派の音楽に強く影響を受け、調性音楽や和声学を始めとした伝統的な手法に基づいた作曲を旨としました。それだけでなく、半音階を交えた息の長い旋律からは、ロシア正教会の聖歌や、ロシア民謡からの影響を指摘することもできます。

 ロシアへの愛着と郷愁を、生涯を通じて伝統的なロマン派の音楽に乗せたラフマニノフは、ともすれば過去を向いている、没個性的であると批評家たちに批判されたこともありました。西洋音楽が一層の多様化と変化を見せていく中で、彼は、確かに同年代の音楽家たちの人一倍保守的であったとも言えるのかもしれません。そのような意味でも、彼はロマン派の「最後の作曲家」のひとりであるといえるのでしょう。


【参考文献】
中川広大(2011)『二十世紀の10大ピアニスト』株式会社幻冬舎
長尾泰・川俣隆(2009)『楽器の事典』株式会社ナツメ社
オヤマダアツシ (2012)『ロシア音楽はじめてブック』アルテスパブリッシング

文:195期HP広報部

用語解説

ヴォカリーズ

歌詞に意味を持たない歌。
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色光ピアノ

音に対応して鍵盤に光が当たるピアノ。
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シェーンベルクの十二音技法

平均律に存在する十二の音すべてを均等に用いて作曲する技法。シェーンベルク(1874-1951)が理論化。
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