交響曲第二番 徹底分析


シベリウス=愛国的?

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ジャン・シベリウス

 シベリウス――というと、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、交響詩《フィンランディア》(1899年)であろう。《フィンランディア》が作曲された当時、フィンランドはロシアの圧政下にあり、この作品の謳い上げる熱烈な愛国心から、ロシアによってその演奏が一時的に禁止されたことは余りにも有名である。果たしてこの作品は、その後のシベリウスの名声に大きく影響し、彼の国民主義的作曲家としての地位を確立させることとなる。

 さて、第195回定期演奏会で京大オケが取り上げるのは、《交響曲第二番》(1901年)である。作曲された時期は《フィンランディア》(1899年)にごく近いと言え、終楽章における大団円の終わり方も、同曲を想起させるものがあろう。しかしながら、《交響曲第二番》もまた《フィンランディア》同様に“愛国的な作品である”と単純に理解してよいのか――この問題が、今回の記事の重要なテーマである。

歴史的背景とシベリウスへの影響

 先ほど《フィンランディア》の部分でも述べたように、シベリウスの創作活動を考察することにおいて、当時のフィンランドの歴史的背景を無視することはできないであろう。そこで以下では、フィンランドにおける独立運動、それに伴うナショナリズム運動の経過を、簡単に見わたしてみることとする。

 フィンランドにおいてナショナリズム運動が始まるきっかけは、1809年にスウェーデンが同国をロシアに割譲したことにある。当初ロシアはフィンランドの自治権を大幅に認めていたが、ウイーン体制成立を機に、フィンランドに対する姿勢が厳しくなっていった。それにつれ、フィンランド人は民族的アイデンティティを意識するようになり、様々な分野でのナショナリズム運動が高まっていくこととなる。
 このような中で、エリアス・リョンロート(Elias Lo”nnrot 1802 — 84, 医師、言語学者)がフィンランドに伝わる口承歌謡を採集・整理し、英雄叙事詩『カレワラ』として出版する。同書は人々の愛国心を大いに刺激し、(シベリウスも含めた)多くのフィンランド人芸術家がこの『カレワラ』に基づく作品を発表するなど、独立運動の精神的な拠り所としての役割を演じた。
 その後、ロシアは1899年に「二月宣言」を発布し、フィンランド国民の言論等の自由をさらに奪う方針を示す。1904年にはフィンランドの愛国主義者によって「二月宣言」の中心者が暗殺される等、不安定な情勢が続くが、1917年にロシア革命が起こり、これに乗ずる形で、フィンランドは独立を果たすこととなる。

 シベリウスの主立った創作期間は、1892年から1926年の約35年間であるが、このうち前半期は、ロシアの圧政が最も厳しく、したがってナショナリズム運動が最も高揚した時期であった。しかし、もともと彼はヘルシンキ音楽院時代(1885 — 89年)までドイツ式の堅固な作曲法を学び、民族的素材に依らない、純粋音楽の作品を作曲していた。卒業後には、卒業作品で注目されて政府からの奨学金を得、1889年秋よりベルリンに約一年間の留学をすることとなる。
 この留学期間の1890年初頭、フィンランドの指揮者・作曲家のカヤヌス(Robert Kajanus 1856 — 1933)が、自作の《アイノ交響曲》を作曲者自身の指揮において演奏した。この作品は、先述の英雄叙事詩『カレワラ』の中の『アイノ』の物語に基づいて作られたものであるが、聴衆の一人であったシベリウスは、この演奏に大きな感銘を受けた。それまでドイツ式作曲法の方向ばかりを向いていたシベリウスであったが、これによって彼は祖国の伝承文化の創造可能性に想いを至らせたのである。
 後に彼は、カヤヌス同様に『カレワラ』を題材として《クレルヴォ交響曲》(1892年)、《四つの伝説曲》(1895年)等を作曲。このほか、《フィンランディア》のような、政治的メッセージをも内包するような交響詩を発表するなど、ナショナリスティックな創作活動も試みている。この時期のシベリウスの作品には、民族的題材のあるいわゆる“愛国的”なものが多く、当時の社会状況が彼の音楽表現に与えた影響は、なかなかに大きいと言えよう。

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アクセリ・ガッレン=カッレラ(Akseli Gallen-Kallela 1865 – 1931)画『アイノ』

シベリウスの創作概念

 

 しかしながら、こうしたシベリウスの創作活動は、単なるナショナリズム運動の一環である、という見方だけで理解され得るものなのかというと、そうではない。シベリウスは、フィンランドの民族音楽を模索すると同時に、それを基として、自己の音楽表現の様式を確立しようとしたのである。彼は1896年に「民俗音楽の様相と芸術音楽に与える影響について」という論文をヘルシンキ大学に提出しているが、その中で次のように述べている(神部, 2008, p.116)。

 民俗音楽は芸術音楽に対して直接的な影響を与えるものではない。その意義は啓蒙的な特性にある。自国の民俗音楽を熟知している作曲家は物事を必然的に異なる視点でとらえ、別の要素を強調し、他者とは全く違った手法で自己の芸術を完成させるのである。そこに芸術家の独自性が存在する。しかし創作においては、特に表現手法に関して、できる限りローカルなものから自由でなければならない。それをいかに達成するかは作曲家の個性によるのである

 
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『カレワラ』の著者
エリアス・リョンロート

 シベリウスに大きな影響を与えた民族的題材として、先程の『カレワラ』が挙げられる。彼が『カレワラ』の創造性に目覚めたのはベルリン留学中だが、彼は『カレワラ』を「音楽そのものだ。主題があり、変奏がある」(松原, 2013, p.21)と評し、その世界を音楽で表現しようとの想を抱き始めた。
 一方で、彼はベルリン留学の後にウイーンにも1年間留学したが、この期間には数多くのコンサートを聴き、交響曲の素晴らしさに刺激を受けたようである。特に、ブルックナーの交響曲を聴いた際の感激を、「ブルックナーこそは現存する作曲家中、最高…」(音楽之友社, 1994, p209)と手紙に書いている。
 『カレワラ』に表れるフィンランド独自の音楽性。そして厳格なオーケストラの響き。これらをどう表現していくのか――彼は模索した。これに対する一つの答えは、《クレルヴォ交響曲》(1896年)として結実する。

 民族音楽の表面的な特徴のみならず、その本質を見極めた上で、その表面的影響を超えた独自の世界を生み出す。一方で、その民族音楽の狭い枠に囚われず、あくまで普遍的な表現方法で実現しなくてはならない――先述の彼の言葉は、このような若き作曲家のラディカルな模索の中で生まれたものと言えよう。シベリウスはこの姿勢に基づき、《クレルヴォ》等の標題音楽において独自の表現方法を模索・開拓していった。そして次のステップとして、“交響曲の創作”へと向かうこととなる。

交響曲の創作へ

 では、シベリウスにとって“交響曲の創作”とは何だったのであろうか。シベリウスは交響曲、交響詩の創作について、

 私の交響曲は、全く文学の要素を持たない音楽的表現である。(中略)私の交響曲の核心は純粋に音楽的なものなのである。しかし交響詩を創作する際は、もちろん状況が異なる。(中略)私はそれらを交響曲と同様にみなすべきだとは全く考えていない(神部, 2008, p.117)
 また彼は、「交響曲」の定義として、
 文学的な枠組みにとらわれず、入念な思考と創造により、先端を守るべき音楽(松原, 2013, p.44)
と述べている。
 つまり、シベリウスは交響曲と交響詩を明確に区別しており、交響曲については、描写性のない“絶対音楽”の立場をとっているのである(因みに《クレルヴォ交響曲》は純粋な交響曲系列に含めない、という考え方が主流である)。このような姿勢は、これまでの《クレルヴォ》《フィンランディア》等の標題志向とは一線を画すものである。しかし一方で、先述の彼の民族音楽への態度から分かるように、彼の交響曲の作風の確立のために、そうした初期の創作活動が重要な役割を果たしているとも言える。すなわち彼は、自身の目指す交響曲の創作のために、《クレルヴォ》などで模索した表現方法を切り捨てるのではなく、むしろそれを洗練・応用させていこうとしたのである。
 このような彼の理念が最初に実を結んだのが、《交響曲第一番》であった。この初演は圧倒的な大成功で、楽章間にまで拍手が起こるほどであった。《第一番》の成功に後押しされつつ、シベリウスはこの方向をさらにラディカルに求めていく――そんな時、彼に一つの転機が訪れる。

用語解説

ウイーン体制

ヨーロッパ列強(ロシア、プロシア、オーストリア、イギリス)を骨格とした、自由主義・民族主義を抑圧する国際秩序
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アイノ

老人との結婚を悲しみ、死を選ぶ乙女アイノの物語
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標題音楽

音楽外の想念や心象風景を聴き手に喚起させることを意図して、情景やイメージ、気分や雰囲気などを描写した音楽
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ドン・ファン(Don Juan)

17世紀スペインの伝説上の放蕩児。数々の情事や、戯れに晩餐へ石像を招待し、その石像によって罰が下されたこと、などが伝説として残されている。
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