朝比奈隆の一生
~京大在学中~


京大へ

 朝比奈が通っていた東京高校は大学入試において優秀な成績を収めており、東京帝国大学法学部の合格率は73%と当時全国一を誇っていた。朝比奈もまた同様に東大法学部を目指していたが、大学入試に失敗し京都大学に進学。京大を選んだ大きなきっかけは、高校時代に読んだ京大新聞だという。そこでは、京大オケがエマヌエル・メッテルを常任指揮者にしていることが掲載されていた。受験期にメッテルの指揮する新交響楽団の演奏を生で聴いて、特異で強烈な印象が残っていたからか、法学部教授の名前も見ずに、メッテルだけに気を取られて京大に決めた。
 京大法学部に進学し、大学裏の吉田山にある3畳半で新生活を始めた。古都、京都は朝比奈にとっていままでとは打って変わった環境であり、勉強はそこそこに、サッカー部と交響楽団に入ることにした。当時の京大サッカー部は関西で最も強く、いつも決勝で東大と戦っていた。一方で、メッテルの指揮する京大オケは、京都音楽界の中心であり、プロ・オーケストラの役割を果たすことも求められていた。

メッテルと京大オケ

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エマヌエル・メッテル

 エマヌエル・メッテルは1884年ロシア貴族の名門に生まれた。ハリコフ大学で法律を学び弁護士になるが、作曲理論を学ぶためにペテルブルグ(現サンクトペテルブルク音楽院)に再び入学した。その頃の同音楽院は、リムスキー・コルサコフが学院長で、グラズノフらが教鞭をとっており、同時期にプロコフィエフも在学していた。卒業後、メッテルは複数の歌劇場や交響楽団で指揮をしたのち、オソフスカヤ夫人(元ワルシャワ・バレエ団プリマドンナ)が宝塚歌劇学校の教師に招かれたのを機に、大阪放送管弦楽団の指揮者として日本に来日した。ロシア革命を恐れて日本に移り住んだ音楽家の一人である。
 メッテルは几帳面かつ厳格な性格で、京大オケ内における彼の影響力はただならぬものであった。一種の教祖のようで、プロとアマチュアの区別はつけないかわりに、メッテルのやり方に少しでも疑問を持つひとは、彼のそばに居られなかった。彼は京大オケ常任指揮者を11年間勤め、戦前の黄金時代を築いた。彼から学んだ様々な音楽が、長い時を経て、現在の京大オケの根源となっているのは言うまでもない。また、音楽のみならず、音楽への姿勢そのものが今日まで受け継がれているように思う。
 彼の凄まじい個性から、いまでも数々のエピソードが残されている。
 初めて京大オケを指揮した時のこと、ほんの少し演奏しただけで、こんな演奏ではやっていけないと激怒した。しかし、団員が個人練習を徹底的に行うからと約束をつけ、その日は解散したという逸話がある。オーケストラに欠席者がいただけで、「練習デキマセン」とそそくさと帰ることも一度や二度ではなかった。それまでの常任指揮者とは全く異なるタイプで、勝手が違うことに振り回される団員も多かった。だが、そんな徹底した彼の音楽への真摯な姿勢に、団員は次第に惹きつけられていった。今現在の京大オケにおける、音楽に対するこだわりや遅刻欠席厳禁の練習は、メッテルによるものなのだろうか。そう考えると、彼が如何に影響力のある人だったのかを感じることができるだろう。
 そんなメッテルの姿に魅せられた団員のひとりが朝比奈であった。

学生オーケストラとは

 大学1回生時、朝比奈はサッカー部、オーケストラの掛け持ちをしていた。ハイレベルなオーケストラで、自身のヴァイオリンは通用しないからとヴィオラを担当し、2回生からは運営にも積極的に参加することになる。
 ある日、サッカーの練習中に有刺鉄線で手の骨が見えるほどの怪我をした。その日はメッテルの練習日であったので、腕に三角巾を巻いて練習に行くと、メッテルは「アナタ練習に参加シナサイ。楽器を持てなくてもそこに座ってイナサイ。サッカーと音楽は関係アリマセン。」と言う。座っていても弾けないと反論すると、「もし休むなら練習に来なくてヨロシイ。ヤメテシマイナサイ。」さすがの朝比奈も練習が終わる頃には、メッテルのもとで音楽を続けるなら、サッカーをやめなければいけないと決心した。(注1)メッテルは、音楽と向かい合うとき、ほかの事情が入る余地は微塵もないことを徹底していた。こうして朝比奈は、ますます音楽の世界に足を踏み入れることとなる。
 京都大学在学中は、“教祖”のもとで和声学やオーケストラの基礎を学んだ。
 和声学では毎週1回4時間、休憩なしにみっちり音楽の構成を教えてもらった。生徒のなかには、昭和を代表する作曲家である服部良一もいた。メッテルらしく、メモをとることは許されなかったという。教科書はリムスキー・コルサコフ著『和声学入門』で、訳本がなかったので、生徒はロシア語やドイツ語の訳本で学習せねばならなかった。当時の音楽学校はドイツからの理論的和声学が一般的であったが、ここではより実践的な、メロディとそれに呼応するハーモニー展開を学んでいた。「ハーモニーが分かれば、オーケストラが分かりマス。オーケストレーションは実際にオーケストラに入れば、どの楽器がどんな音を出すかわかるから、特別に勉強する必要はアリマセン。」とメッテルは言う。
 京大オケの演奏会もメッテルの意向が強く反映されたものとなっていた。得意とするロシア系作曲家やベートヴェンを数多く取り上げたことが、朝比奈のオーケストラの基礎となっていった。もちろん、メッテルの指導は演奏会に向けて厳しさを増した。「学生のテクニックが拙いことは、当たり前のことデス。しかし、学生には頭がアリマス。曲の理解はできるし、私の注文は素直に反応してクレマス。ですから、京大オケは、エクスプレッションで世界一とナルノデス。エクスプレッションはテクニックがなくてもデキマス。エクスプレッションのないオーケストラは自動ピアノ、音楽ではアリマセン。」(注1)こうして朝比奈は、メッテルの持つ音楽精神も同時に学んだ。
 メッテルの残した言葉の端々に、学生オケとしてどうあるべきかを考えさせられる。京大オケが約100年ものあいだ、多くの人を惹きつけることが出来るのはなぜなのか。それはただ単に理論的に音楽を構築し、レベルの高い演奏を目指しているだけではないからであろう。団員各々が、京大オケや音楽に対する熱い想いに向き合い共有し、その想いを胸に音楽と対峙している。時には、意見が食い違ったり路頭に迷ったりすることもあるが、それを経ることで新たな京大オケの音楽が生まれる。そして、様々な想いのつまった京大オケの音楽を介して団員と聴衆が一体となることで、多くの人を魅了してきたのではないだろうか。
 晩年朝比奈は学生時代を、メッテルにつきっきりで、その音楽における影響力は強烈だった、と振り返っている。メッテルの個性の強いところを模倣してばかりだったため、のちにそこから抜け出すのは大変だったという。しかし、その時のことを後悔しておらず、むしろ同時代で最高の音楽教育を受けたという自負が彼にはあった。そして、メッテルに心から尊敬と感謝の念を抱いていた。音楽教育とともに、彼の音楽への想いが露呈され、生活の一部となったのもこの頃である。ぶつかり合える音楽と仲間がいたからこそ、彼をここまで音楽の世界に引き込んだのだ。

 京大オケとメッテルに出会い、音楽の楽しさをますます知ることになった朝比奈。彼を語るにおいて、京大オケとメッテルとの関わりは避けられない。当時の日本はオーケストラさえ希少であったのにもかかわらず、高度な音楽教育を受けることができたのは、非常に幸運であった。そして、この大学生活が今後の彼の人生を大きく左右することになる。

注1)『オーケストラ、それは我なり』より引用

【参考文献】
中丸美繪著,中央公論新社『オーケストラ、それは我なり』
朝比奈隆著,音楽之友社『楽は堂に満ちて』
中山健太郎ら著,京都大学音楽部『京都大学音楽部交響楽団75年史』

文:195期HP広報部

用語解説

新交響楽団

東京を中心に活動していた日本初のプロ・オーケストラ。現NHK交響楽団の前身。
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