R.シュトラウスの《ドン・ファン》


作曲の経緯

 リヒャルト・シュトラウスは、1864年にドイツのミュンヘンで生まれました。彼の父親はミュンヘン宮廷歌劇場のホルン奏者だったので、小さなころから音楽の教育を施されていたそうです。そのおかげか、幼少の頃から作曲もしていましたが、初期に書かれた作品の多くはベートーベンやモーツァルトなどの古典派、またメンデルスゾーンやブラームスなどロマン派の様式を模倣した室内楽作品でした。
 そんなリヒャルトの転換期となるのは、父にプレゼントされたイタリア旅行でした。イタリアの風景や美術にカルチャーショックを受けたリヒャルトは、交響的幻想曲《イタリアから》(1886)を書き上げます。この作品はそれまでの模倣的な作風から一転して詩的であり、イタリアの風物を音で描こうと試みたものでした。形式の面でも「古典」からの逸脱が見られ、そして何より、リヒャルトは彼の一番の特徴となる色彩豊かなオーケストレーションをわが物としたのです。
 《ドン・ファン》はこの勢いさかんな時期に書かれた交響詩のひとつです。1887年にイタリアからドイツに帰ったリヒャルトは、ミュンヘン宮廷歌劇場の指揮者として活動する一方で、1年に1曲のペースで交響詩の傑作を3作残しています。《ドン・ファン》はその第2作目にあたり、1888年に完成しました。

「ドン・ファン」の歴史

 ドン・ファンは戯曲や小説などに繰り返し描かれてきた架空の人物です。彼は大変な好色家として描かれ、現代日本でもプレイボーイの代名詞として使われる事もあるほどです。
 ドン・ファンは、17世紀スペインの詩人・ティルソ・デ・モリーナが書いたと言われている戯曲『セビーリャの色事師と石の招客』の中に初めて現れました。『セビーリャの色事師と石の招客』のあらすじはこのようなものです。

ドン・ファンはプレイボーイの貴族で、女性を騙し誘惑する日々を送っていました。そんなドン・ファンはある日、娘を手篭めにしようとしているところを父親ドン・ゴンサロに見つかってしまい、彼を殺してしまいます。その後、彼の墓を通りかかったドン・ファンは、ドン・ゴンサロの墓の石像を宴に招待します。すると、宴会に石像が本当にやってきてしまうのです。石像はお返しにドン・ファンを自分の宴会へと誘います。誘いに乗ったドン・ファンは、ドン・ゴンサロにふるまわれた料理を食べて死んでしまい、彼に騙されていた女性たちはみんな「未亡人」として元の婚約者のもとへともどります。

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モリエールの『ドン・ファン』

 この作品の中のドン・ファンは、非人道的で罰当たりな人間でありつつも、どことなく陽気なペテン師として描かれていますが、これを下敷きとして書かれた後世の作品では違う描かれ方をしていきます。17世紀フランスの喜劇作家であるモリエールは、戯曲『ドン・ジュアン、またの名を石像の宴』(1665)を書きました。この作品の中のドン・ファンは複雑な性格を付与され、神も地獄も恐れぬ無神論者としての顔も持っていました。また、モーツァルトが台本作家デ・パルマと共に作ったオペラ《ドン・ジョバンニ》は、このモリエールの戯曲に影響を受けた作品だと言われています。これらの作品はそれぞれ性格の味付けは異なれど、ふしだらで、不道徳で、不条理な人間として描かれている所は通底しています。
 この傾向から脱したのは、イギリスの詩人バイロン卿でした。叙事詩《ドン・ファン》では、ドン・ファンを堕落した文明のなかで“完璧”な女性や愛を見つけようとする理想主義的な人物として描きました。つづいてこの系譜に連なるドン・ファンを描いたのが、オーストリアの詩人ニコラウス・レーナウでした。

レーナウのドン・ファンとリヒャルト

 ニコラウス・レーナウは1812年にハンガリーで生まれました。彼は1831年ごろから1844年までに3度の失恋を経験し、暗い思考や抑うつ的な気分が高じて1844年には精神病院に入れられてしまいます。そしてそのまま1850年に48歳で亡くなってしまいました。叙事詩『ドン・ファン』は、この詩人の遺作となり、未完に終わってしまいます。
 レーナウもまたバイロンと同じく、ただ色事のみが彼の唯一の生業であるようにはドン・ファンを描きませんでした。彼の詩の中でのドン・ファンは、やはり完璧な女性を求めるあくなき理想主義者でした。しかし女性をとっかえひっかえしても完璧な女性を見つけられない彼は、厭世感に囚われてしまいます。そしてついには「完璧な女性」を見つけられないことを悟り、決闘のさなかに自ら死を選ぶのです。報われぬ恋による苛立ち、自暴自棄さや鬱屈が、ドン・ファンを多面的な存在に仕立てています。

 リヒャルトは、レーナウのドン・ファンをもとに作曲しました。リヒャルトもまた、レーナウやドン・ファンと同じように、若いころに幾たびかの恋愛を経験したそうです。彼のかなわぬ恋に対処できない気持ちが、レーナウの詩に登場するドン・ファンに投射されたのではないか、と指摘されています。
 交響詩《ドン・ファン》の作曲当時24歳だったリヒャルト・シュトラウスは、レーナウの詩から3つの部分を総譜の冒頭に引用しました。これらは3つとも性格描写であり、リヒャルトがどちらかというとドラマチックな出来事そのものというよりはドン・ファンの内面や精神を描きたかったことが伺えます。当時のリヒャルトは周囲の人間の影響でショーペンハウアーに傾倒しており、世界を厭わしいと思う気持ちに共感したのかもしれません。

《ドン・ファン》に影響をあたえたもの

 彼はこの曲を書くにあたってハバネラを引用しました。これは、キューバからスペインへと渡って定着した舞曲です。ゆったりとした跳ねるようなリズムが特徴で、ビゼーのオペラ《カルメン》に使われたことで有名です。

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カルメンのハバネラのリズム

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リヒャルトのハバネラ

 《カルメン》はドン・ファンと同じようにスペインを舞台としたオペラで、激しい恋に身を滅ぼしていく人間模様が描かれています。あらすじはこのようなものです。

煙草工場で働くジプシー女カルメンに誘惑されてしまった伍長ドン・ホセは、婚約者をふり捨てて彼女のもとへと走ります。しかしその時すでにカルメンの心は他の男に移っていました。復縁しなければ殺すと言って迫るドン・ホセに、カルメンは殺すがいいと言い放ち、逆上したドン・ホセはカルメンを刺し殺してしまいます。

 リヒャルトは《ドン・ファン》を作曲する数年前に《カルメン》を鑑賞し、感嘆したという記録が残っています。ふたつの物語の性質は違いますが、情熱的であるという点で通底しているものがあります。ちなみに、上の画像の箇所では、カルメンが恋の気まぐれさを艶めかしいメロディーで歌っています。 
 また、リヒャルトがモーツァルトを愛していたのは有名な話です。当時リヒャルトが歌劇場でオペラの指揮をしていたことも考えると、交響詩《ドン・ファン》はモーツァルトの歌劇《ドン・ジョバンニ》にも、何か着想のヒントがあるのかもしれません。

 このようにリヒャルトの《ドン・ファン》は、様々なジャンルの要素を取り込んで作曲されました。他の作品を知ることで、より深くリヒャルトの《ドン・ファン》を理解することが出来るのではないでしょうか。

参考文献
岡田暁生『リヒャルト・シュトラウス』作曲者◎人と作品シリーズ(音楽之友社)
ティルソ・デ・モリーナ、佐竹義一『セビーリャの色事師と石の招客』(岩波文庫)
http://apmadonna.weebly.com/uploads/9/7/1/8/9718766/essay.pdf

文:196期HP広報

用語解説

バイロン卿

イギリスの詩人(1788-1824)。主著に 『ドン・ジュアン』、『チャイルド・ハロルドの巡礼』など。→記事に戻る

ショーペンハウアー

ドイツの哲学者(1788-1860)。主著は『意志と表象としての世界』。→記事に戻る