ウィーンの森 特集記事


19世紀初頭ウィーン

 ウィンナ・ワルツが盛んに作曲された時期、つまり19世紀初頭のウィーンは、ある特徴的な時代の中にありました。それは後世ビーダーマイヤー時代と呼ばれるようになった、保守的ながらも平和な時代です。ウィーン会議が開催されてから、フランスの復古王政が倒れた二月革命の間30年ほど続いたこの時代に、ウィーンは、他の土地には存在しなかった独自の享楽的で混沌とした文化的背景を持つに至りました。ここでは、19世紀初頭のウィーンがどのような土地だったかについて考えていきます。

 第一にウィーンは、ドナウ川流域の肥沃な大地を食糧庫として抱えた豊かな都でした。19世紀初頭には、生活が成り立たないような極度の貧困層はごく少なかったとも伝えられています。食糧難とは遠い生活によって、ブルジョアジー(有産者階級)とプロレタリアート(労働者階級)の格差は、この時代にはまだそれほど深刻な問題とならなかったようです。結果としてこの時代のウィーン人は、娯楽を尊重する享楽的な生活を送ることになりました。心地よさ、快適さ(ゲミュートリヒカイト)を追い求めるそのような姿勢は、今日でもウィーン人の特徴として有名ですが、ウィーン人の音楽と芸術への愛を支える重要な要因だったといいます。
 第二に当時のウィーンの為政者ハプスブルク家には、15世紀末の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世より、音楽を愛する伝統が長く存在しました。音楽家は、音楽的素養を求められた軍楽隊や宮廷劇場の楽者として手厚く保護を受けることができました。というのもハプスブルク家のひとびとは、美しいものを保護し民に浸透させることが、国内の統治への不満を解消すると考えていたのだそうです。そんな独自の統治理論に基づいた、音楽だけにはとどまらない芸術全体への庇護が、ウィーンを芸術の都として栄えさせた一つの大きな要因となったのは間違いないでしょう。
 第三に、当時のウィーンにおいて特徴的と言えるのは、いわゆる現代でいうクラシック音楽とポピュラー音楽に大きな差が無かったと思われることです。モーツァルトをはじめとした大作曲家は、交響曲や室内楽やオペラを書くと同時に、メヌエットやワルツなど、娯楽のための軽快な舞曲を日常的に作曲しました。また、音楽家たちが、交響曲やオペラ音楽にメヌエットやワルツを積極的に取り入れているのも、そのような特徴を反映していると言えましょう。

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現在の中央ヨーロッパ

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舞踏会の様子(ジュリアス・スチュアート)

 このような3つの要因に、ウィーンの持つ別の要因がとりわけ深く関係していました。それはウィーンが多くの移民たちからなる、多文化と多民族の街であったことです。
 当時のオーストリアは、ウィーン会議で広大な支配圏を回復した結果、非常に多くの民族グループを抱える多民族国家となりました。非常に複雑な民族関係を持つ中欧地域と、同じく様々な民族が入り乱れたバルカン半島の境目であり、さらに東西の交易路の交差する点に位置するウィーンには、多くの異民族が流入しました。マジャール系、チェコ系、ポーランド系、スラヴ系、イタリア系などを中心としたそのような異民族と共に、彼らが持つ多くの音楽と踊りもウィーンにやってきました。ポルカマズルカチャルダッシュなどは、今もクラシック音楽の重要なレパートリーとなっていますし、誰しもその名前を一回は耳にしたことがあるでしょう。このような民族音楽とそれに伴う舞踊は、ウィーンの音楽的土壌をより混沌とした豊かなものにしました。ここで誕生したのが、ウィーン特有の舞踊文化だと言えます。庶民だけでなく貴族階級までもが、ワルツをはじめとした舞踊を好んだのです。ウィンナ・ワルツは、このような享楽的な世相と、独特の文化背景とに強く結びついた音楽だったのです。

《ウィーンの森の物語》とウィンナ・ワルツ

 《ウィーンの森の物語》が作曲された1868年は、ウィンナ・ワルツが生まれたビーダーマイヤー時代が過去のものとなり、フランスで起こった二月革命の影響が着実にオーストリアに及ぼうとしていた時期にあります。ウィーン会議によって拡大したオーストリアの領土は既に縮小をはじめており、それまでは成り立っていた様々な民族や文化の共存が、独立問題という厄介な火種に変わろうとしていました。オーストリア・ハプスブルク家の支配下にあることに抵抗する声が上がり始めたのです。そんな中、ウィンナ・ワルツ隆盛の立役者だったヨハン・シュトラウス1世の息子、ヨハン2世によって作曲されたのが、《ウィーンの森の物語》です。
 既に述べた通り、ウィンナ・ワルツは、19世紀初頭のウィーンを反映した音楽でした。よってウィンナ・ワルツは、ウィーン人の音楽という側面を持ちなら、多民族多文化の街ウィーンだけでなく、それを総べていたオーストリアを象徴する音楽でもあるといえるでしょう。
 数多くの市民に娯楽と憩いの場所として愛された“ウィーンの森”という題材を、ウィンナ・ワルツで表現することで、ヨハンは何を示したかったのでしょう。それはこの時代に勃興した、民族主義準拠のナショナリズムなのだと考えるべきなのでしょうか。あるいは、多くの民族間の紛争がまだ目立たなかったビーダーマイヤー時代、19世紀初頭への懐古的な感情なのだと解釈するべきなのでしょうか。
 時代性が生んだ音楽ともいうべきウィンナ・ワルツは、それが誕生した明るく楽天的な19世紀初頭が過ぎ去っても、長くウィーンの民衆に愛される音楽となりました。《ウィーンの森の物語》をはじめとする数々の傑作を得たことにより、限定された時代を超えて、ウィーン人を表現する音楽としての側面を獲得したと考えられます。ウィーンが誇るオーケストラ、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートに、この音楽が必ず取り入れられているのも故なきことではありません。ウィンナ・ワルツが不動の地位を得たのは、ウィーンに根差した文化風土とウィーンに住む人々の思いがあるからなのです。
 ユダヤ系であり、また母親はロマ(ジプシー)の血をひいていたとも伝えられるヨハン2世が、生涯に渡って数多く作曲したウィンナ・ワルツに掛けた思いとは、一体どんなものだったのでしょう。そんな観点から、ウィンナ・ワルツを代表する名曲《ウィーンの森の物語》を聞いてみるのも、また楽しいかもしれません。

参考文献
『ウィンナ・ワルツ ハプスブルク帝国の遺産』(2003, 加藤雅彦著, 日本放送出版協会)
『ヨハン・シュトラウス 初めて明かされたワルツ王の栄光と波乱の生涯』(1999,フランツ・エンドラー著, 音楽之友社)

文:196期HP広報部

用語解説

ウィーン会議

1814年から1815年、ウィーンで行われた国際会議。ナポレオン失脚後のヨーロッパの秩序回復の目的で行われたが、各国の利害が衝突して難航。→記事に戻る

二月革命

1848年、当時フランスを支配していた王朝であるオルレアン朝が倒れた革命。→記事に戻る

ポルカ

チェコの民族舞踊。スロヴァキア、ポーランドにも広がる。早い2拍子のリズムが特徴。→記事に戻る

マズルカ

ポーランドの民族舞踊。4分の3拍子。→記事に戻る

チャルダッシュ

ハンガリーの民族舞踊。緩急の激しい4分の2拍子のリズムを持つ。→記事に戻る