客演指揮者山下先生
インタビュー


京大オケとの出会い

―――京大オケとの共演は今回の第196回定期演奏会で7回目ですが、過去の演奏会や京大オケについて特に印象に残っていることはありますか?

 やっぱり 最初の演奏会ですね。そこで《展覧会の絵》を取り上げたんだよ。なぜかっていうと、僕は カラヤンのアシスタントを1985年から彼が亡くなるまでずっとしていて、当時レコーディングに参加した中の一曲が《展覧会の絵》だったんだよね。その時僕はまだ20代の後半で指揮者の仕事も始めたばっかりだったし、そのときの学生と盛り上がったんですよ。同年代ってこともあってね。だからそのプログラムもだけど、京大オケとの出会いみたいなのも覚えているね。すっごく思い入れがある。
それから何回も共演したけど、どの演奏会も僕の非常に大切な思い出になっていますよ。

―――昔と比較していまの京大オケはどのように感じられますか。

 初めて来た時からすごく頑張っているし上手なオケだなって感じていた。でも技術的な、楽器を弾くということに関しては格段に今の方が良くなっているんじゃないかなあ。そういう確実な進歩を見ることができるって言うのは25年くらいお付き合いしているおかげかなと思いますね。ただそれは変わったところ。変わらないところは、できるだけ学生の手で作ろうとするところ。
 例えば、トレーナーをいっぱい呼んでいるところもあるでしょう。そこでは、最初にほぼ答えに近いものを与えられてそれが出来るように練習するっていうやり方なのね。言ってみればそれも一つの方法なんだよね、回り道しなくても済むし。
でも、結局自分で探してたどり着いた答えと、答えを最初から与えられてそこに向かって精進していくっていうのは、やっぱりちょっと違うんだな。最終的に同じことが出来たとしても終わった後に自分の中にどれだけ残っていくかっていうことだよね。それは勉強でも同じことでしょう。自分で解いた問題っていうのは、絶対忘れないよね。答えに意味があるんじゃなくて。その解いていく過程であったり、その過程で得たものが他の問題にも応用できるわけだから。
 今は回り道しているかもしれないけど、自分の世界は確実に広くなっている。結局全部答えを教わっていると、自分の中にプロセスがないから毎回教わらないとできなくなってしまう。京大オケの自ら答えを探していくというやり方が頑なに守られている感じがするのは、とっても素晴らしいことだと思うし、これからもそれを是非守り続けてほしいなと思います。

今回の演奏会について

―――まず、《ウィーンの森の物語》やヨハン・シュトラウス2世について先生はどのようにお考えですか。

 ヨハン・シュトラウス2世の場合はウィーンの音楽だから、やっぱりウィーンの言葉の訛りが音楽に出ている。そして、とっても民族的。今回は チターが出てくるけど、それが登場しない音楽であってもヨハン・シュトラウス2世の音楽って言うのは、その時代に流行っていたものが敏感に取り入れられていて、すごく世俗的な音楽ですよね。いわゆるそこまで高尚な音楽じゃないものをいかに楽しく聞かせるかっていうのが案外難しいんだなって思いましたね。

―――今回は特に山下先生が得意なリヒャルト・シュトラウス(以下リヒャルト)を僕たちもぜひ一緒に演奏したいと思って、《ドン・ファン》をプログラムに取り上げました。リヒャルトやドン・ファンについてどういう人物だと先生はお考えですか。
fea-196-6-1

ホール練習の様子

 僕はベルリンに留学していたので、ドイツ・オーストリアのロマン派のものや古典派のものが大きなレパートリーで、その中でも大事なのがリヒャルト・シュトラウスね。京大オケとは今までに《アルペン交響曲》や《死と変容》もやっているよね。
 僕が思うのは、例えばリヒャルトは上行形で始まる曲が多いでしょう。あれは全部男性のテーマなんだよね。全部が力強い。そこに女性的なキャラクターが入って来た時にはヴァイオリンやオーボエのソロだったりするわけだけど、まさに人生の縮図的なものが曲の中に現れている。それはリヒャルトの交響詩にはごくごく初期の作品であっても存在するんだよね。
 僕はリヒャルトの交響詩も《家庭交響曲》以外は全部やっているんだよ。そうやってみて交響詩《ドン・ファン》をみると、ちょっと物足りないところもあるけれど、まぎれもなくリヒャルトの匂いやキャラクターがそこに色濃くある。素晴らしい作曲家だなあと思う。
 ドン・ファンは、かっこいい人だよね。例えば読み方は違うけど《ドン・ジョバンニ》っていうモーツァルトのオペラがあって。あれの方がオペラという形をとっているからより具体的だけれど、最後はお父さんに連れられて地獄に落ちてしまうわけ。でも別に単に女性をたくさん相手にするようなスケベ親父じゃなくて、かっこいい奴なんだよね。それに加えて自分自身もかっこよくあろうと自分に課しているところがあるんじゃないかなと思います。

―――今回の演奏会で3曲目に演奏するブラームスの《交響曲第2番》は、《第1番》を書き終えてブラームス自身すごくリラックスして書いた曲だなという印象を受けるんですけれども、先生はどうお考えですか。

 これは僕の個人的な印象だけれど、ブラームスはすごくシャイで、ちょっと内向的で繊細な人だったと思うのね。交響曲作家としてベートーヴェンを尊敬するあまり、シンフォニーを書くことにそうとうプレッシャーを感じていたはず。だから、ものすごく時間をかけて書いた《交響曲第1番》の成功を、内向的な彼なりに精いっぱい喜んだのが《交響曲第2番》だと思うんです。でもやっぱり彼の内向的な部分っていうのは絶対あるわけで。それこそがブラームスのイディオムみたいなとこがあるんだよね。
 ブラームスは4曲しかシンフォニーを書いてないから1曲1曲の凝縮度っていったら大変なものでね、あともうひとつは1曲1曲が本当に違うのね。それを演奏するときにやっぱりどこかで居住まいを正さないといけない。
 《交響曲第2番》について言うと、1楽章については牧歌的なリラックスした感じで。2楽章に関しては、最初はシリアスなんだけど途中からきれいな風景、自然が見えてくるんですね。どうしても僕たちが表現しようとすると人の感情になってしまう。苦しいのか、喜びなのか。いろんな感情があるじゃない。そこに結び付けやすいんだけど、「自然」って、そこにあるだけで「あぁ美しい」って、「愛でる」感じになるよね。3楽章は牧歌的で、厳格な交響曲の中でもほっとする場所で。4楽章は輝くばかりで、ブラームスの4つの交響曲のなかで特別ね。ブラームスらしくないっていったらちょっと怒られちゃうかもしれないけど、あそこまで外向きで相当なオーラを発している曲はないね。最後みんな息ができなくなっちゃうみたいな。立派な教会の壁画や装飾に後光がさしている様なものすごく特別な雰囲気だよね。

用語解説

最初の演奏会

1989年6月 第145回定期演奏会。曲目は、ベートーヴェン作曲《「エグモント」序曲》、シューベルト作曲《交響曲第8番「未完成」(フィルハーモニア版)》、ムソルグスキー作曲《組曲「展覧会の絵」(ラヴェル版)》

カラヤン

オーストリア出身の指揮者で、ベルリンフィルの終身指揮者やウィーン国立歌劇場の総監督などを務めた。

チター

弦楽器のひとつ。南ドイツやオーストリア、スイスなどでよく用いられる民族楽器。

テーマ

楽曲の性格を決め、統一感を与えるもの。