朝比奈隆の一生~再び京大へ~


サラリーマン時代

 京大を卒業した朝比奈は、第一志望だった鉄道省への入省叶わず、結局縁故を辿って阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)に就職した。こうして朝比奈はサラリーマンとなったが、電車の運転手になっても、その後百貨店に勤めるようになっても、あまり真面目な社員とは言えなかったらしい、と物語るエピソードがある。客の少ない朝の百貨店で当時貴重だったクラシックのレコードを流し、仕事を抜け出しラジオ番組に出演、後述する四重奏団の仲間と弦楽四重奏を演奏したというのだ。性格的にも向いている職場とは言えなかったようである。そんなわけで、やはりというべきか、彼は阪急の社員として働きながらも、音楽活動を精力的に展開していた。仁川駅の傍にあった教会で催される音楽会を聞きに行くなど聴衆としては勿論のこと、チェリスト伊達三郎 を中心として大阪に誕生した〈大阪室内楽協会〉にヴァイオリン演奏者として参加したりしている。

 ここで、特筆すべきは、彼はこの時期でも京大オケに所属していたらしいことである。現在の京大オケは学生以外の所属を認めていないが、その当時の京大オケは卒業生の在籍をゆるしていたようだ。彼は学生時代から引き続き、「教祖」メッテルのレッスンに通い、彼の鞭撻を受けていたのである。というのも、このころ、メッテルを中心とする京大オケは、クラシックが現在ほど広く普及する前の時代にあって、外国人指揮者を迎えて本格的に活動するオーケストラとして、ますますプロとしての色合いを強めていた。年に4回演奏会を行った時期もあったほどである(もっとも、これは音楽に手心を加えることを許さないメッテルの前に、演奏のクオリティを保てず瓦解してしまうのだが)。彼は心酔するメッテルのため、そしておそらく彼の音楽のために、演奏に限らず京大オケの維持発展に奔走したという。サラリーマン時代の朝比奈は、最高の音楽教育を受けたと自負する学生時代から、変わらぬ音楽への傾倒ぶりを発揮していたといってもよいだろう。サラリーマンとしての生活に上手く馴染めなかった朝比奈を支えたのは、音楽だったのだろう。音楽は、人の体が生きていく上で直接必要だとは言えないが、人の心が生きていく上では強い支えとなりうるものだ。

再び京大へ

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当時の映画の新聞広告

 2年で阪神急行電鉄を退社し、京都帝国大学に学士入学を果たした朝比奈が、2度目の入学時に受験した文学部哲学科美学専修を卒業したのちのことを、真剣に考えていたという痕跡は少ない。朝比奈が25歳で阪神急行電鉄を退社した昭和8年と言えば、ちょうど厳しい不景気のただ中にあり、非常に数が少なくエリートとされた大卒の若者でも就職は難しかった。それは2度目の大学入試の面接時、哲学科卒では就職できないと教授から念を押されるほどだったというが、それはさておき。彼が京大に戻ってから、ぼんやりとでも指揮者となる道を考え始めたのは確かなことであるようだ。大学再入学してすぐに、「指揮者になるためには、まず楽器を弾けるようになりなさい」というメッテルの助言を受け、ポーランド人のヴァイオリニスト、メンチンスキーによるヴァイオリンのレッスンを本格的に開始した。また、四重奏団〈大阪室内楽協会〉の演奏会を年4回定期的に開き、京大オケにおいても、ヴィオラ首席奏者を務めるなど演奏活動に力を入れるようになった。その傍ら、毎回京大オケの練習に現れるわけではないメッテルの代役として指揮台に立ち、オーケストラを指揮するようになったのも、この2回目の学生生活の間であった。この学生生活の間に、後年、偉大な指揮者として称えられるようになる朝比奈は、はっきりと指揮者という目標に向かって努力を重ね始めることになったのだ。それまでおそらくは彼の、音楽が好きだという思いが後押ししてきた音楽活動に、指揮者になること、という一定の方向性が与えられたのである。その思いは、朝比奈個人にとっては、音楽の喜びと不可分であっただろう。朝比奈は、友人に宛てた手紙の中で、こう語っている。

 「(音楽について) 無限に美しい世界があとからあとからと目の前に見えてくるのが堪らない魅力だ」(中丸,2012)

 音楽の魅力。朝比奈を音楽の道へ駆り立てたそれは、感動屋で凝り性の彼をして、音楽というある種の難題に取り組ませる、強いモチベーションだっただろう。一人一人が心に思う「音楽の魅力」は、人によって違うものであろうし、違うものであって当然なのだが、それは、人を音楽に携わらせる一つの大きな要素に違いない。この点において、朝比奈も私たちも同じ次元にある。京大オケが学生団体であろうと、たとえ京大オケを離れても、それは変わらない。自分が音楽の何処に魅力を感じているのか、じっくり考えてみることも、音楽の神髄に近づく一つの方法かもしれない。

《第九》の演奏

 朝比奈が二度目の大学生を過ごしていたとき、定期演奏会においてベートーヴェンの交響曲第九番《第九》を演奏する運びとなった。これは、当時の常任指揮者メッテルの反対を押し切って、当時の団員たちの強い熱意のもとに実現した公演だった。これは《第九》が関西初演ということもあって外部も強い関心を示し、来客者がホールの定員数をはるかに上回るほどの大盛況だった。最後の一音を弾き終わったとき、彼は感極まって涙を流していたという。この《第九》を提案したのが、ほかならぬ朝比奈だった。当時メッテルの代振りとして京大オケとかかわっていた朝比奈は、音楽部を《第九》を演奏するにふさわしい名称にしようと提案し、音楽部から〈京都大学交響楽団〉〈京大オーケストラ〉となった。ここからも、当時の朝比奈の京大オケに対する強い思いをうかがうことができる。

常任指揮者として

 大学4年間の課程を終えた朝比奈は、大学卒業後、アメリカに渡ったメッテルの後任として、京大オケの常任指揮者に就任し、7年間常任指揮を務めた。

 この間の朝比奈は、指揮者としてのキャリアがなかなか思うとおりに行かず、苦しい立場に立たされながらも、プロの指揮者としての道を探っているさなかであった。新交響楽団(現在のNHK交響楽団)の常任指揮者のポジションを狙いながら、それを得られなかったのである。

 当時大阪音楽学校の講師であり、大阪に住んでいた朝比奈だが、京大オケの練習は無遅刻無欠席を貫いたという。師匠のメッテルがそうであったように、オーケストラに対して怒りをあらわにすることが多かったと伝わる当時の朝比奈であるが、同時に、学生オケの在り方や方針を後輩に対して語る、熱意溢れる指導者でもあった。現在の京大オケの、自分たちの音楽への向上心やストイックさ、団員一人一人の京大オケに対する思いの深さは、朝比奈が常任指揮者だったころから変わらないのかもしれない。


 サラリーマン時代、2度目の学生時代を経て、京大オケの常任指揮者となり、そしてプロの指揮者としての道を選んだ朝比奈。彼は徐々に有名になり、ブルックナーの音楽と出会うことによって、名声を確立するに至りました。自ら音楽への道を切り開いていった彼の熱い思いに、学ぶべき点は多いのではないでしょうか。

参考文献
中丸美繪,『オーケストラ、それは我なり』,中央公論新書,2012

文:196期HP広報部

用語解説

伊達三郎

 東京音楽学校を卒業し大阪音楽学校の教授。後に大阪フィルハーモニー交響楽団首席奏者となる。