プロコフィエフの生涯、そして交響曲第5番


海外時代

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プロコフィエフ

 帝政ロシア末期、現在のウクライナに生まれたセルゲイ・プロコフィエフは、弱冠13歳でペテルブルク音楽院に入学し、「神童」「天才」の呼び声とともに華々しくロシア音楽界にデビューしました。しかし、第一次世界大戦のさなかに起こったロシア革命(1917年)によって、帝政は崩壊してソヴィエト政権が成立し、ほどなく反革命勢力とそれを支援する欧米・日本などの列強諸国の干渉によってロシア国内で内戦が始まりました。プロコフィエフはこの政情不安を避けるために、また西欧世界での活躍を夢見て、翌年にロシアを出国します。
 しかし、プロコフィエフは西欧世界で大きな挫折を味わうことになりました。初めに新天地を求めたアメリカでは、保守的な聴衆がプロコフィエフの先鋭的な作品を受け入れませんでした。次いで移住したパリでは、不協和音や大音響を駆使した自信作《交響曲第2番》の初演が不評に終わります。アメリカとは逆に、日々次々と生まれる最先端の音楽に接していたパリの聴衆は、彼の音楽に目新しさを感じなかったのです。

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ラフマニノフ

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ストラヴィンスキー

 また、祖国を同じくするライバルたちがプロコフィエフの前に立ちはだかります。ピアニストとしては彼より18歳年上のセルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)が、また作曲家としては彼より9歳年上のイーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971)が、すでに第一次世界大戦の前から欧米の音楽界で確固たる名声を築いていました。このような先駆者たちの存在は、遅れて西欧世界に足を踏み入れたプロコフィエフにとって、大きな障害だったと考えられます。
 やがてプロコフィエフは、興行師ディアギレフ率いるロシア・バレエ団から委嘱されたバレエ音楽でひとまずの成功を収めますが、1929年にディアギレフが急死したことでヨーロッパに築きつつあった地位を失ってしまいました。この頃からロシア(ソヴィエト)への演奏旅行・一時帰国を繰り返していたプロコフィエフは、帰国の意志を固めはじめます。そして1936年5月、ついに彼は祖国――ロシア帝国ではなくソヴィエト連邦――へ帰還しました。

ソヴィエト帰国

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スターリン

 念願の帰国を果たしたプロコフィエフですが、彼は西欧世界よりもさらに厳しい境遇に立たされることとなります。折しも彼の帰国した1936年は、独裁者スターリンによる「大粛清」がピークを迎えた年でした。大粛清では多くの無実の人間が密告によりスパイ容疑を着せられ逮捕、処刑されました。プロコフィエフの周りでも、彼と交友関係をもっていた多くの人物が粛清の犠牲になっています。一つ間違えば彼の身にも危険が及ぶ可能性が十分にありました。
 また、ソヴィエトでもプロコフィエフには強力なライバルがいました。彼より15歳年下の、ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906~1975)です。彼は1937年に初演され大成功を収めた《交響曲第5番》でスターリン政権下での「安全」な地位を確保し、ソヴィエトを代表する交響曲作曲家としての座を確立していました。

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左からプロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン

 ショスタコーヴィチが次々と交響曲を世に送り出していくのに対し、ソヴィエト帰国以降のプロコフィエフの作曲活動は、映画音楽やバレエ音楽、また当局の意向に沿ったプロパガンダ音楽など広い範囲に渡っていましたが、交響曲には手をつけないままでした。言うまでもなく交響曲は西洋音楽において最も重要なジャンルと見なされていますが、プロコフィエフはそれまでに書いた4曲では決定的な成功を収めていませんでした。そして次回作となるはずの《第5番》という番号は、ベートーヴェンやチャイコフスキーなど音楽史上の名だたる作曲家たち、そしてライバルであるショスタコーヴィチが記念碑的な大作を送り出した番号です。自らの作曲家としての威信をかけた作品となるはずの《交響曲第5番》。どのようにこれに挑めばよいのか。プロコフィエフは模索を続けていました。

独ソ戦

 1941年6月22日、ナチス・ドイツ軍が一斉に国境を越えてソヴィエト領内に侵攻し、「大祖国戦争」と呼ばれる独ソ戦が勃発します。緒戦で大勝したドイツ軍は一気に首都モスクワに迫りますが、冬将軍の到来やソヴィエト側の反撃に阻まれ、翌1942年のスターリングラード攻防戦での凄惨な敗北を契機に徐々に押し返されていきます。

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独ソ戦期のソヴィエトの募兵ポスター

 戦火を避けるためプロコフィエフは北カフカス、カザフスタンなどに転々と疎開していましたが、この大戦中彼の創作欲はかつてない高まりを見せ、トルストイ原作のオペラ《戦争と平和》、バレエ音楽《シンデレラ》、《ピアノソナタ第7番》などプロコフィエフを代表する力作・大作が次々と誕生します。この背景には、戦時中にあって国民の間でナショナリズムが大きく高揚したこと、また戦争への協力を得るため当局が一時的に国民への締め付けを緩めたことなどがあると言われています。そしてドイツ軍がほぼソヴィエト領内から駆逐されつつあった1944年に、満を持して《交響曲第5番》が完成します。「Op.100」という節目の作品番号が付されたこの作品は、1945年1月13日にモスクワで初演されました。初演の模様はラジオで全国中継され、演奏前に20発の祝砲が放たれるなど、戦勝を目前にしたソヴィエトの国威発揚の場ともなりました。初演は大成功を収め、同年中にアメリカ初演も行われ、この交響曲はプロコフィエフの代表作として知られることとなりました。

光と影

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ベルリンを占領するソヴィエト軍

 《交響曲第5番》の初演から4ヶ月後の1945年5月、ナチス・ドイツが無条件降伏し、独ソ戦は連合国の勝利という形で終結しました。しかし、この約4年間の戦争でソヴィエトが被った惨禍は甚大なものでした。ソヴィエトの戦死者は約2000万人。連合国と枢軸国双方の参戦国の中でも群を抜いて大きな犠牲であり、ソヴィエト国民は疲弊しきっていました。
 また、絶好調であったかに見えたプロコフィエフの人生も暗転します。《第5番》初演直後の転倒事故や持病の高血圧の悪化によって、彼は医師によって作曲時間を大きく制限されることとなりました。この状況下で彼は、暗く沈んだ響きが印象的な交響曲《第6番》を作曲します。戦争の大きな爪痕と自らの健康の悪化がこの作品に大きな影を落としており、「光」の面である《第5番》と対照的な作品と言えるでしょう。
 この作品は、プロコフィエフを窮地に陥れることになります。終戦後ほどなくして始まった東西冷戦の影響下で、ソヴィエト当局は戦勝祝賀ムードに対して次第に戦前のような締め付けを再開していきます。1948年の悪名高い「ジダーノフ批判」 において、プロコフィエフは《第6番》をはじめとする作品を「形式主義的」であると批判され、彼の作品は演奏禁止の処分を受けました。またこの頃、離婚していた前妻リーナがスパイ容疑で逮捕されシベリアに送られます。プロコフィエフの身には危険が迫っていました。
 この苦難の時期にあって彼の支えになったのが、天才チェリスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチとの出会いでした。ロストロポーヴィチはプロコフィエフの別荘に足繁く通い、この深い交友関係によってプロコフィエフは精神的余裕を取り戻します。やがてプロコフィエフは、バレエ音楽《石の花》や組曲《冬のかがり火》といったシンプルでわかりやすい作品でソヴィエト当局の要求に応え、窮地を脱しました。

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スターリン死去を報じる日本の新聞
(『朝日新聞』東京版1953年3月6日夕刊)

 しかし病の中での作曲活動による消耗はプロコフィエフの体を蝕んでいました。1953年3月5日、プロコフィエフは脳溢血により61歳の生涯を閉じます。前年10月に初演された交響曲第7番《青春》が遺作となりました。奇しくも同じ日に、独裁者スターリンが――皮肉なことに彼も脳溢血によって――死去します。スターリン死去のニュースにモスクワはパニック状態となり、市民が大挙して赤の広場に押し寄せ、スターリンの死を悼みました。スターリンの葬儀のために市内の花屋という花屋はすべて押さえられており、プロコフィエフの棺に置くことができたのは、拾ってきた松の枝一本のみであったといいます。
 ソヴィエトの新聞記事はしばらくの間スターリンの追悼記事で埋め尽くされ、プロコフィエフの訃報は数日遅れで小さく掲載されただけでした。

交響曲第5番

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第4楽章冒頭

 さて、このような波乱の生涯を送ったプロコフィエフは、『交響曲第5番』でどのような音楽表現を試みたのでしょうか。
 第1楽章冒頭で聴かれるのは、ベートーヴェンやショスタコーヴィチの《第5番》のように衝撃的なフォルテの響きではなく、民謡を思い起こさせるような素朴なメロディーです。この作品では、このような叙情的なメロディーが全曲にわたって登場します。一つのモチーフを執拗に繰り返していくベートーヴェンやショスタコーヴィチに対し、プロコフィエフはメロディーどうしの形を大きく崩すことなく、それらを巧みに組み合わせながら曲を進めていきます。また第4楽章冒頭では、4声部に分割されたチェロが第1楽章冒頭の主題を再現します。人の声に近いといわれるチェロの音色も相まって、どこかロシア正教の聖歌の合唱を思い起こさせるシーンです。
 ロシア正教会では伝統的に聖歌は無伴奏であることが原則とされ、楽器の使用は禁止されています。この影響からか、ロシア音楽では器楽においても「歌」「メロディー」が古来より重要視されてきました。この路線にのっとって、19世紀よりボロディン、チャイコフスキー、ラフマニノフなどが数々の交響曲を世に送り出してきました。プロコフィエフは、《交響曲第5番》という重要な節目において、「メロディー」というロシア音楽の伝統の上に自らの交響曲のスタイルを見出したのです。
 しかし、この《第5番》は決して保守的な作品にとどまってはいません。随所に聴かれる不協和音、また第2楽章を終始支配するメカニカルな音型など、西欧時代の作品にみられた先鋭的な響きも、いくぶんマイルドな形で作品の随所に織り込まれています。また、第3楽章で聴かれるグロテスクな響きからは、戦争の影を感じ取ることもできるでしょう。
 また、第4楽章の終結部にもプロコフィエフの独創性がうかがえます。この楽章はクラリネットの陽気な主題と、ベートーヴェンの《第9》を思い起こさせる低弦の荘厳な主題を中心にして音楽が進んでいきます。交響曲の「王道路線」にのっとれば、コーダではこれらの主題が朗々と奏でられ感動的なクライマックスを形成するはずですが、プロコフィエフはこれらを展開させることなく、むしろ切り刻むようにして中断していくのです。金管楽器が数度にわたってこれらの主題を堂々と奏し、クライマックスを形成しようとしますが、これらは十分に発展しないままに突拍子もない転調や木管のトリル、弦楽器のせわしない音型などによって一蹴されてしまい、狂乱のうちに曲を閉じます。従来の交響曲のセオリーを覆す斬新な手法と言えるでしょう。

 プロコフィエフは《交響曲第5番》において、彼が生まれついたロシア音楽の伝統である「メロディー」と西欧的でモダンな響きを絶妙なバランスで融合させています。ロシアを離れ西欧世界を経て再びロシアに帰り着いたプロコフィエフならではのハーモニーが、この交響曲の魅力ではないでしょうか。ロシア音楽ならではの雄大なメロディーもあれば、それとは対照的な無機質でメカニカルな音型もあり、はたまた意表をつく展開もあり…プロコフィエフの『交響曲第5番』には、他の作曲家の交響曲にはない、おもちゃ箱をひっくり返したような独特のエッセンスが詰まっています。今回の第197回定期演奏会では、そういったプロコフィエフの魅力をお伝えできれば幸いです。

主要参考文献
アレクサンドル・ラザレフ、亀山郁夫「ラザレフvs亀山郁夫―ガチンコ対談「プロコフィエフは俺にまかせろ!」」『音楽の友』2009年3月号、pp.113-116
音楽之友社編『作曲家別名曲ライブラリー プロコフィエフ』音楽之友社、2010年
亀山郁夫「20世紀ソヴィエト音楽における“抒情”の運命―プロコフィエフとスターリン権力」『レコード芸術』2003年10月号~2006年12月号連載
ひのまどか『プロコフィエフ―音楽はだれのために?』リブリオ出版、2000年

文:197期HP広報

用語解説

ジダーノフ批判

スターリンの側近アンドレイ・ジダーノフが主導した文化統制。「社会主義リアリズム」のイデオロギーが掲げられ、その路線に合致していないという名目で多くの文化人や芸術家が攻撃された。