シューベルトとゲーテ


シューベルトとウィーン古典派

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 シューベルト(1797-1828年)は1797年にウィーン郊外に生まれました。この時代のヨーロッパは、フランス革命(1787-1799年)を契機として貴族社会から市民社会へと社会構造が大きく変化した時代です。音楽史的にはバロックの時代が終わりを告げて、ハイドン(1732-1809年)、モーツァルト(1756-1791年)、ベートーヴェン(1797-1828年)に代表される古典派と呼ばれる音楽が隆盛を極めた時期にあたります。シューベルトは一般的にはロマン派の音楽家として知られていますが、その生涯はベートーヴェンの後期にほとんど重なっており、記譜法や基本的な作曲法は古典派の影響を強く受けています。
 社会的にみると、この頃は市民に音楽が解放された時代で、富裕層に限られてはいたものの市民でもチケットを買えばコンサートホールで演奏を聴くことができるようになり、楽譜を購入して自宅で自ら楽器の演奏ができるようになりました。これは作曲家の立場からすると、音楽に大きな市場が生まれたことを意味し、作曲家が自分の音楽を世に問うことが出来るようになったのです。これによって莫大な富と名声を手に入れたのがハイドンであり、演奏会という場にふさわしい音楽として「交響曲」を考え出したのです。
 ここで古典派音楽とは何だったのかを振り返ってみましょう。まず、バロック音楽との決定的な違いは対位法の廃止です(ただしフーガは例外)。旋律と和音伴奏による軽やかな音楽が古典派音楽であり、バロックでの通奏低音に代わって旋律が曲をリードし、旋律が音楽の主役になったことが特徴です。また、この時代に確立されたソナタ形式は、二つの異なる主題を対立させるように提示した後、それを展開し、再現部でその二つを和解させるという音楽による「対話」ともいうべき性格を持っています。これは、「啓蒙主義」によって育まれた、理性による個人の解放という時代の精神を反映したものとなっています。
 古典派音楽がいつ終わったのかの線引きは難しいですが、ベートーヴェンの中期(1802年頃)とも、そこから後期へ移行していく過程(1815/16年頃)であるとも言われています。ベートーヴェン後期にはロマン派の作曲家というべき人々が創作活動を行っていました。シューベルトの歌曲「魔王」の作曲も1816年になります。

シューベルトとゲーテ

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 シューベルトはモーツァルトと同じように多産な作曲家であり、多い時には1日に8つもの曲を作曲しました。その際にもほとんど下書きをせず、作品を頭の中で明確に構成し、それをよどみなく楽譜に書きとおすことが出来たといわれています。しかし、この両者には大きな違いがあります。モーツァルトがオペラにおいて最も偉大であったのに対して、シューベルトの真価は歌曲において発揮されたのです。シューベルトはその短い生涯のうちに600もの歌曲を作曲し、死後には「歌曲の王」と称されたように、詩の世界を音楽に移し変え、芸術歌曲をそれまで達したことのない高みに導きました。シューベルトは過去の著名な詩人の書いた詩を熟知しており、その詩に作曲することもしばしばありましたが、ここでは、同時代を生きた詩人ゲーテ(1749-1832年)との関係についてお話しします。
 シューベルトはゲーテの作品に非常に多くの曲を付けており、シューベルトが生涯作曲した600曲の歌曲のうち70曲ほどがゲーテの詩に作曲されました。特に有名なものとしては「魔王」「野薔薇」「糸を紡ぐグレートヒェン」「ガニュメート」などがあります。その全体的な特徴としては、表現の法外なダイナミズム、躍動感が感じられるものとなっています。
 ゲーテは言わずと知れたドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』などは読んだことがある人も多いかと思います。イタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚め、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いた人物です。シラーによれば、ゲーテは素朴詩人であり、自然と一体になり、自然の恵みを豊かに享受できた芸術家であったそうです。
 ゲーテの詩にあって他の詩にないものはいわば自然の力であって、詩の言葉の中にすでに独自の調和を持っていたことであると考えられています。シューベルト自身もそのことに気がついていたようです。ゲーテの詩「憩いのない愛」による歌曲を1816年6月にエルデディ伯の自宅で演奏した日のシューベルトの日記にはこう書かれています。「このときはぼくも演奏しなければならなかった。ベートーヴェンの変奏曲を弾いてから、ゲーテの「憩いのない愛」とシラーの「アマーリア」を歌った。満場の拍手は前者のほうが多く、「アマーリア」には拍手が少なかった。ぼく自身も「アマーリア」より、「憩いのない愛」のほうがより成功していると思うけど、ゲーテの音楽的な詩才が拍手を呼んだ大きな理由であることにまちがいない。」
 多くのゲーテの詩に作曲してきたシューベルトでしたが、ゲーテへの思いは片思いに終わっています。第一作の「糸紡ぎのグレートヒェン」をはじめとした歌曲をゲーテに献呈しますがゲーテはこれをことごとく無視します。さらに1816年に有力者の紹介状付で献呈されたバラード「魔王」の場合には、献辞ともども原稿を送り返すということまでしています。これは当時の社会的な立場の差を考えれば当然かもしれません。ゲーテ自身は曲が全面に出すぎて素朴さに欠けるとしてシューベルトの曲をあまり好みませんでしたが、シューベルトの死後の1830年に「魔王」を聴くと「全体のイメージが眼で見る絵のようにはっきりと浮かんでくる」と感動し評価を改めたといいます。
 シューベルトの作品を聴いていると、その自然な表現に驚かされることがあります。考え、感じ、語るようにありのままの感情をあらわにした点においてシューベルトはロマン派なのでしょう。それはまた、「自然と芸術、この二つのたがいに避けあっているように見えるが、その実、省察の対象となる以前にすでに和合しているのだ」というゲーテの認識と共感するところがあるのかもしれません。

参考文献
岡田暁生著 『西洋音楽史 「クラシック」の黄昏』 中公新書
フィッシャー=ディースカウ著 原田茂生訳 『シューベルトの歌曲をたどって』 白水社
平野篤司著 『ゲーテと音楽』 http://www.seijo-law.jp/pdf_lar/LAR-020-045.pdf
Wikipedia シューベルト、ゲーテ

文:197期HP広報部