ブラームスのドイツ音楽人生と近代の音楽家たち


ブラームスの交響曲時代

ヨハネス・ブラームス(1833~1897)が『交響曲第二番』を完成させた1877年から2年後に、今回の演目である『大学祝典序曲』は書かれました。重厚で複雑な『交響曲第一番』とは対照的な、温和で喜びに溢れた『交響曲第二番』で成功を収めたブラームスは、ドイツ音楽の作曲家として一躍脚光を浴びることになります。この時彼の音楽家としての人生は最高潮を迎えていました。1878年4月ドイツ国内で『交響曲第二番』の指揮を行い、その後念願のイタリア旅行に出かけます。北ドイツのハンブルク出身であるブラームスはイタリア音楽にはあまり影響を受けなかったものの、イタリアの人々の明るさや自然に触れてとても喜んでいたといいます。その後も度々イタリアへ出向き、現地で作曲することが多くなりました。

『交響曲第二番』の発表から6年後の1883年には『交響曲第三番』が、翌年の1884年には最後の交響曲である『交響曲第四番』が作られます。2つの交響曲はどちらもロマン溢れる作品ですが、『交響曲第四番』はバロック音楽の手法を取り入れた特にブラームスらしい作品となっていて、ブラームス自身も最高傑作であると評しています。また、どちらの作品もブラームスらしくドイツ有数の保養地滞在中に書かれました。

『大学祝典序曲』とブラームス

 ブラームスは生来、質素倹約で名声には興味がなく、偉大な人として扱われたり自分の曲を礼賛されたりすることが苦手だったといいます。しかし音楽的向上心は人一倍で、より良い作品を作ろうとする心は生涯消えませんでした。57歳には作曲をやめることを決意し遺書を書き記したものの、その後再び作曲意欲を取り戻し、亡くなる1年前にはピアノ小品集『四つの厳粛な歌』を書いています。また、母親譲りの自然好きで晩年に至るまで散歩が日課でした。

『大学祝典序曲』は1879年に、ブレスラウ大学から名誉博士号を授与された返礼として書かれたと言われています。自身の名誉に対しての祝典曲を作ることを一度は断ったブラームスでしたが、授与推薦人のベルンハルト・ショルツからの説得もあって、この作品は生み出されました。そんなブラームスですが、名誉博士号を授与されたことに関しては素直に喜んでいたといい、曲調の中にもそれは現れています。楽しい学生歌が引用されている点もその1つであると思われますし、冒頭のハ短調は決して暗い感情を表すのではなく、率直に喜べないブラームスの性格を表していると感じられます。全体として『大学祝典序曲』は『交響曲第二番』と同じく陽気な作品に仕上がっているといえるでしょう。

2つの序曲

 ブラームスの2大序曲として『大学祝典序曲』と『悲劇的序曲』があり、しばしばこの2曲は対なものとして扱われます。『大学祝典序曲』と『悲劇的序曲』はほぼ同時期に書かれたと言われています。当時のブラームスは『交響曲第一番』と『交響曲第二番』など同時期に性質の異なる2つの曲を書くことが多いことはよく知られていますが、『悲劇的序曲』の作曲動機に関してはあまり良くわかっていません。しかしこの2つの序曲には、当時のブラームスの相反する状況が表れています。

かつてドイツロマン派音楽の巨匠であるロベルト・シューマン(1810-1856)は彼の才能に驚き、当時の音楽雑誌「新音楽時報」でブラームスを紹介し、音楽家としての第一歩を支えました。その息子であるフェリックス・シューマンは詩才であり、ブラームスは後に詩曲を贈るほど親交がありましたが、1879年に急死してしまいます。また、親交のあった画家アンゼルム・フォン・フォイエルバッハも1880年に死去しました。このようにブラームスの心中には、この時期は相次ぐ友人の死への悲しみと自身の音楽的成功に対する喜びが渦巻いていたのです。

シューマン夫妻との関係

ブラームスはシューマン夫妻とデビュー当時から深い関係がありました。ブラームスは作曲活動中足繁くシューマン家に通い、作品を世に出す時はシューマン夫妻に一度聴いてもらっていたと言います。夫のロベルト・シューマンが精神病で入院することになると、ピアニストである妻のクララ・シューマンはロベルトに会うことが出来なくなります。ブラームスはクララとは互いに音楽家として尊敬し合う関係でしたが、ロベルトが病んでいる間、7人の子供を一人で養うクララの姿にブラームスは惹かれていき、最終的には恋愛関係にまで至ったと言われています。やがてロベルトが亡くなると二人の恋愛関係は薄れていき、しまいにはお互いに文通を全て破棄してしまったために、現代に残る手がかりは無くなってしまいました。クララは1896年に死去してしまいますが、ブラームスも後を追うように1897年に没しています。

ブラームスの影響と新ドイツ楽派

 ブラームスはロマン派の中でも保守的でした。その背景には彼がドイツに対する愛国心を持っていたこと、ベートーヴェンの古典的な楽曲群を愛していたことがあります。そのため、19世紀当時主流となりつつあった進歩主義的な新ドイツ楽派とはしばしば対立しました。特にフランツ・リスト、ワーグナーとは激しく対立したのですが、互いに嫌悪はしながらも才能を認め合っていました。今回2曲目で取り上げられるマーラーの『交響曲第二番』はこうした過渡期においてロマン派と現代音楽の狭間に生きたマーラーの作品であり、その意味では今回ブラームスの『大学祝典序曲』とマーラーの『交響曲第二番』という性質が全く異なる音楽が演奏されることは非常に興味深いことです。また20世紀にはブラームスに才能を認められ長く親交のあったアントニン・ドヴォルザークが、後期ロマン派音楽家の様々な考え方を融合し、民族音楽を音楽手法に取り入れた国民楽派を大成しました。その後国際的な評価を得るなどして、新大陸アメリカの音楽文化にも大きな影響を与えました。あくまで古典主義的なブラームスでしたが、さまざまな音楽家との関係の中において現代音楽に通ずる礎を築いたと言っても過言ではありません。

 

参考文献

『ブラームス』(門馬直美著 春秋社,1999年)

『ブラームスは語る』(ホイベルガー,フェリンガー著/天崎浩二編・訳/関根裕子訳 音楽之友社,2004年)