客演指揮 篠﨑靖男先生インタビュー


プログラムについて

205-fea-cond

――まずは3曲を通したコンセプトについてお話しいただければと思います。

 フランスとロシアは全く違う国なんだけど、たくさんの作曲家がいた中で、オーケストレーションというものが豊かになった19世紀。その集大成のような3曲です。

 チャイコフスキーとカリンニコフについて。カリンニコフはチャイコフスキーを尊敬している人で、ものすごく関係があった。チャイコフスキーは19世紀にオーケストレーションを完成させて、次のプロコフィエフやショスタコーヴィチに向かってロシアの音楽は違うぞっていうのを見せた。世間に忘れられかけていたのが、今になってリバイバルした。19世紀と20世紀を橋渡しした、ヨーロッパのロマンティシズムの集大成のような位置づけ。
 それに反面フレンチ。例えばベルリオーズはたくさん楽器を使っているがハーモニーはそこまで新しいわけじゃない。フランスのオーケストレーションやハーモニーのひとつの到達点がドビュッシー。そういった意味で(今回のプログラムは)面白いカップリングだと思います。

 フランスとロシアは文化的なかかわりが強い。特に帝政ロシアの終わりごろ、知識階級はフランス語で会話していたり、チャイコフスキーの家庭教師はフランス人だったり。チャイコフスキーっていうのは『ロメオとジュリエット』という物語を、物語の内容だけじゃなくてそこに流れているアトモスフィアみたいなものを色彩感として表現できている。そういった意味でドビュッシーの『夜想曲』も幻想的。自分の頭の中の幻影に色彩感を混ぜている。
 そんな感じで、フランス音楽とロシア音楽はカップリングとして合うんですよ。僕はフランス音楽とチャイコフスキーが大好きなんです。

 そしてカリンニコフ。実は今回初めて知りました。京大オケに「この曲どうですか」ってお願いされて勉強させてもらって、こんな面白い曲があるんだと思った時点ですごく感謝しているし、本番まで楽しみで仕方ない。彼ら(カリンニコフを含めた作曲家)も若い中で野心がありながら、ロシアの音楽っていうものをなにか自分たちなりに作ろうとした。でも若くして死んでいるから、反対に、一番野心的なときだけが残った。ひとによっては、ドビュッシーのハーモニーが入っているとかいう人もいるわけですよ。それもありえることです。今回は19世紀後半のひとつの音楽の到達点をやるコンサート。

――『ロメオとジュリエット』についてお聞かせください。

 テーマは簡単、「愛はなにものにも勝つ」。でも恥ずかしいでしょ、この時代に愛はなにものにも勝る、みたいな。でもそれを大きな声でいう曲なんです。これはチャイコフスキーのテーマでもある。彼はマンフレッド交響曲も入れたら、交響曲を7つ書いている。でも、一番彼のことを理解しやすいのはバレエ音楽なんですよ。一番若い時に書いたのは『白鳥の湖』なんです。次に『眠りの森の美女』、『くるみ割り人形』なんです。テーマ的には逆順のように思えるけど聴いていると『くるみ割り人形』が一番熟している。で、『ロメオとジュリエット』もそうだけど『白鳥の湖』のテーマは「愛はなにものにも勝つ」なんですよ。その「勝つ」っていう部分が、揺るがなくシンボリック。

 たとえば『ロメオとジュリエット』の出だしのクラリネットとファゴットの4声の[1]コラールがあるでしょ。あれがまずシンボル。ところどころにいろんな闘いがあったり、慟哭があったり、純粋な部分があったりするけど、シンボルが出てくるときは絶対に揺るがない。(曲の後半になって)金管楽器があれを吹いたときの感動ね。だからあのフレーズが曲の冒頭から出てくるので、そこはロマンティックにおぼれないようにしたい。シンボルだから。絶対的な強さがあるから。
 その中にヴィオラとコールアングレが出てくるところ(愛のテーマ)、我慢してたけどたまらなくて、「やっぱり好きだ!」って言っているメロディーとか、いろんなものがあって、ものすごくロマンティックなんだよね。しかも『白鳥の湖』なんかもそうなんだけど、裸にロマンティック。なんの準備もなく、急にそのフレーズが出てくる。そのときのこっち(演奏する側)の意気込みがしっかりないと曲にならない。美しいだけで終わってしまう。

――『夜想曲』についてはいかがですか。

 彼のヴィジョン、視覚というもの、本当に見えているというよりは頭の中で見えているものをすごく突き詰めて音にした人だと僕は思うんです。曲の出だしは雲が広がっている。印象派の絵もそうだけど、ドビュッシーは自分の中でつくりあげてキャンパスに表す。光っていうものを特に突き詰めたものだと僕は思う。それが3曲目(シレーヌ)になったときに明らかになる。今回は演奏しないけども。3曲はかなり傾向が違う。1曲目(雲)と2曲目(祭り)はそれぞれで出来上がっている。3曲目はまた新しいものをつけた感じ。

 今回やる1曲目と2曲目に関して。例えば2曲目。みんな鋭いリズムとかいろいろなことをやっているときに、トランペットが急に入ってきて、祭りの行列が始まる。でもこの行列にしたって、いくら目を凝らしても見えない行列のような気がするんだよね。でも確かにある。そういうのを表現するためにソルディーノ(弱音器)使ったり、ハープと弦楽器を使ってみたり。コントラバスとハープとティンパニとか、この時代の中ではこの組み合わせは考えられないんだよ。後の時代の人はやるけど。聴いている人からしたら、「こんな音聞いたことない」っていう音が聞こえてくるんだよね。それでどんどん楽器が増えて期待感が高まってきたところに、トランペットの聞いたことない音が聞こえてくる。そういった部分がドビュッシーのオーケストレーションとハーモニー感のうまさよね。
 あと、下(の音域を担当するパート)がずっと同じ音を演奏していて、上だけ音が変わっていくでしょ。これがすごくドビュッシー的。不協和音だけど不協和音に聞こえない、だから全く別のメロディーが入ったって違和感がない。音の新しい要素、光が入り込んでくる。バラバラじゃないけど全く別のもの、それがひとつのキャンバスに入っている。そういうのがドビュッシーの凄さ。
 そしてこれが「どこかで聞いたことある」という感じなんです。なんだろう、どこかで聞いたことがある、今まで触れた中で一番美しいもの…みたいな。(ドビュッシーの曲は)こういう部分で引き込まれるんだよね。これがなかったら遠い存在だから。

――カリンニコフの「交響曲第一番」についてもお願いします。

 カリンニコフは、ものすごくロシアを愛した人。あの当時チャイコフスキーもムソルグスキーもドヴォルザークも、自分たちの音楽の確立を一所懸命考えた。それまではフランス、ドイツ、イタリア、この3つの音楽が最高だった。自分たちの民謡みたいな曲なんか、クラシック音楽じゃないという感じで。我々日本人で言ったら、「赤とんぼ」とか「さくら」みたいな曲を、ベートーヴェンとかと同じクラシックだって言いにくいでしょう?でも明らかに自分たちの音楽だよね。
 全楽章、チャイコフスキーとかの影響を受けているとはいえ、全く物まねじゃないんだよね。早く亡くならなかったらもっと有名だったんじゃないかな。交響曲って考えてみると、[2]ロシア5人組ってそんなに書いていない。チャイコフスキーが書き始めて、彼は交響曲として結晶させるところまでいった。そこからどう発展させるかというところで、(カリンニコフの交響曲第一番は)ものすごくなじみ深いメロディーがありながら、大胆なハーモニーがどんどん出てくる。対位法的にもすごく高級な作曲技法を使っている。これからますます注目されていく曲だろうね。

――作曲の背景として、病気の療養期間に入っていたということですが。

 そうよね。20代の頭くらいからずっと病気で。亡くなったのは34だよね。この曲を初演した場所はキエフ。療養したのは?

――ヤルタですね。

 いわゆるあったかいところだね。ロシアの冬は凍るからね。僕はフィンランドに住んでたじゃない。冬になると凍るんですよね。フィンランドは第二次世界大戦の敗戦国で、僕が指揮してたとこは、ほぼ爆弾でやられてた街だった。そこに住んでるおじいちゃんとかに話を聞くとね、一面凍って、そこにロシアの、氷の上を走れる戦車がやってきてやられたらしい。一度ね、僕がフィンランドに滞在してたとき、凍り始めた日ってのがあったんですよ。薄氷が手前の方にあって、雪がまだ降ってないから空の太陽が当たって、本当に美しかった。鏡みたいで。写真も撮ったんだけど、そういう色合いってその瞬間しか見えないし、写真撮っても実物とちょっと違うんだよね。
 だけど、音楽ってそれを再現できるんですよ。ドビュッシーは光だし、チャイコフスキーは人間の愛だし、カリンニコフはロシアの土地や自分自身だし。そういう漠然としたものを音楽に表現した。

 もうひとつ面白い話があるんだけどね。あのへんの時代のオペラとバレエの違いって何が違うか。オペラは普通にありえる生活なのよ。バレエは、全部童話でしょ。ありえないこと。例えば『白鳥の湖』で、急に言葉で「白鳥に変身するぞ」って言ったら変でしょ。ああいう物語に言葉を入れてしまうと、漫画みたいになっちゃう。バレエは言葉なしの音楽だけ。雰囲気であったり情感であったり、ひとの心の奥底であったり、光であったり。僕が(京大オケで)前回やったプロコフィエフを例に挙げると、バレエで有名なのは『シンデレラ』と『ロメオとジュリエット』。『シンデレラ』は、あれをオペラにすれば子ども向けになっちゃうと思う。バレエにするから、大人も楽しめる。『ロメオとジュリエット』にしたって、恋を初めてしたような年代でしょ。だから現実の生々しい人間というよりもっとファンタスティックな部分であの物語は成立してる。童話でもなく、現実社会でもない、真ん中あたりにある。言葉にならないからこれだけ伝わるんだろうね。

京大オケについて

――京大オケで指揮を振っていただくのは、今回で3回目ですね。

 最初は20年前くらいですね。今とは社会も違うけど、やっぱり同じ雰囲気があるんですよね。大学オケだから人は変わるんだけど、脈々と受け継がれてきた伝統がある。「自分たちはこのくらいのレベルまでやらなきゃいけない」っていうのがちゃんと続いている。いろんなオーケストラを振りに行くんですけど、あるときに「ああこのレベルが限界かな」と思うときがあるんですよ。もうちょっと超えるのが頑張りどころなんだけど。京大オケの場合もそうだけど、そのレベルに届かなかったり超えたりする年がある。高いレベルをいつも知ってて、でもそのレベルは何年か一度、いろんな要素が集まってできたくらいのレベルだから。そうじゃないときにも、「ここまでいかなきゃだめなんだ!」っていう、そのレベルが高い。それがずっと伝統としてある。だから、「これじゃだめなんだ」っていう期間がなかなか終わらない。だから初回の指揮者練習のときも、今回の曲の練習を始めて1か月ちょっとなのに、一定のところまで来てるからね。「篠﨑先生よろしく」で丸投げじゃない。

 あとあるのは、いい意味でのオーケストラのプライドと、目の輝き、って言ったら簡単なんだけど。いいものやればやるほど、音楽から与えてくれる。感動を。いいものを突き詰めて、いいものやったなっていう感動を、入ってくる後輩たちに伝えていくのがずっと続いていく。20年前と4年前と今と、「こう言ったらこう返ってくるだろうな」というのが変わらない。

 あとね、ひとつ言えることはね。音って、武器とか嫌がらせにも使えるんですよ。見たくないものは目を瞑ればいいし、臭かったら鼻をつまめばいい。でもね、音だけは逃げられないんだよ。耳栓したら大丈夫とかはあるかもしれないけども。人間の視聴覚の中で破格に割合をとっているのは目。でも目は閉じたらなんとかなるんだけど、耳は閉じられない。無意識に入ってくる。だから、音楽っていうのは危険を伴う芸術なんだよね。
 例えば車を運転しているときにきれいな景色が見えたとして、マーラーのアダージェットみたいな静かで美しい曲を流すか、ワルキューレの騎行みたいなアップテンポな曲を流すかで、同じ景色が全く違うように見えるからね!アクセルの踏み具合も変わるからね。おかしいでしょ、視覚が脳の中で一番ウエイトがあるのに。だけど視覚が変わったからって音楽の印象はそこまで変わらないよ。コンサート会場がボロボロであっても金ぴかであっても真っ暗であっても、気持ちは変わるかもしれないけど、音楽の印象は変わらない。

 だから音楽を聴いているだけで、どこかで見た視覚がよみがえるんだよね。それが面白いことだと思うんです。音楽を楽しみたいと思ったら、どれだけ美しいものを見てるか、美しい経験があるか。室内で練習するのもいいんだけど、絶対僕は、音楽する人は美しいものを見た方がいいと思う。そうじゃないと、美しいものを表現できない。頭の中で理想を追い続ける、そういうことをやっていきたい。

――ありがとうございました。



 編集後記
 国内外を問わず指揮者としてご活躍している篠﨑先生に、お忙しい中貴重なお話をいただくことができました。篠﨑先生には今回の定期演奏会に向けて、来箱(客演指揮者をお招きするホール練習)のほかに、普段の全体合奏やセクション分奏も不定期でご指導いただいており、団員一同気を引き締めて練習に励んでおります。各団員と篠﨑先生の熱い思いが込められた音楽を、ぜひ会場にてお楽しみください。


用語解説

[1]コラール:ここでは、聖歌的な雰囲気や響きを持ったフレーズのことを指す。

[2]ロシア5人組:19世紀後半にロシアの民族的音楽を志向した作曲家集団。ミリィ・バラキレフ、ツェーザリ・キュイ、アレクサンドル・ボロディン、モデスト・ムソルグスキー、ニコライ・リムスキー=コルサコフからなる。

[3]ワルキューレの騎行:余談だが、その曲調ゆえ、ドライブ中にかけてはならない危険な曲ランキング1位になっている(イギリスのRAC Foundationによる2004年の調査に基づく)。

文:205期HP広報