去年8月、京都大学吉田キャンパスの南端に建つ「学生集会所」が解体され、その長い歴史に幕を閉じました。耐震性における問題から、建て替え工事を行うためです。
今年で築102年を数える学生集会所(私たちは単に集会所と呼んでいます)は、大変な老朽ながらも、複数のサークルの活動拠点として、学生で賑わう建物でした。京大オケにとっても、主に弦楽器の練習場所として、長らく私たちを見守り続けてくれたかけがえのない場所です。現在、私たちは西部構内に建てられた「プレハブ」にて練習を行っていますが、長い年月を共に過ごした集会所のことは、今でも懐かしく思い出すことがあります。
今回の特集記事は、そんな集会所の思い出を集めた、団員たちによる寄稿集です。記事の制作にあたり、現団員・OB合わせた4人の方に文章を寄せていただきました。以下、紹介させていただきます。
ヴィオラパート員(2012年度入団)
一度集会所をのぞきにきた外国人の方に集会所について説明したことがある。英語で「ここはどのような場所ですか?」と尋ねられてとっさに「学生が集まるところです」と答えた。その方が不思議そうな顔をされたので、「学生たちはここで楽器の練習をしています」と付け加えた。私の拙い英語がどのくらい通じたのかはわからないが、それよりも、自分がまず集会所を練習場でなく、文字通り人が集まるところと説明したことが面白かった。
京都大学交響楽団に入団して1年半、集会所に行けばほとんどの場合団の仲間に会うことができた。たとえそれが深夜2時であっても。皆それぞれの生活リズムがあるので、時間帯によって練習しているメンバーがある程度固定されている。たまの休講で普段行かない時間に練習に行ってみると、夜には見かけない人が練習していて新鮮な気持ちになることもあった。
集会所で会うと言っても、たいていの人は個人練習に没頭しているので会話をするわけではない。ただ自分よりも先に来て練習をしている人がいる、気がつくと練習している人が増えている。そのことがいつだって励みになった。
私にとって集会所は単に楽器の練習をする場所ではなかった。仲間のいる場所、そして自分の居場所だった。いつでも誰でも迎え入れる集会所の懐の深さが、この団のあたたかさを育んだのだと思っている。
ヴィオラパート員(2012年度入団)
ポテンシャルの低い場所。
気を抜くと、ついふらふらと足が向ってしまう。オケの人たちはみんなそう言って、なにゆえなのかと話をしたことがある。そこで、集会所は京大の中でいちばんポテンシャルが低いからだ、と誰かが言った。
実際、百万遍からはゆるい下り坂になっているのだが、それは措いても、集会所はみんなの心のよりどころであり、なぜか集まってしまう場所だった。
いつもの時間。顔を出せばお馴染みのメンツがいて、一心不乱にさらっていたり、やたらと難しいソロ曲を弾いていたり、棚の中で寝ていたり、楽器はうっちゃって一晩中でも話し続けていたりする。だいたい人によって出没する時間帯と頻度が決まっているのだが、いつ行っても必ずいる人というのもいて、そういう人は畏敬を込めて「集会所の住人」と呼ばれていた。
楽器にとっては最悪の環境だった。夏は暑く、蚊が容赦なく襲来し、冬は冬で寒すぎて、弾く手を止めるともう指がこわばって動かない。梅雨の湿気もひどく、雨の日にDQが重なると目も当てられない。弓に水滴がついて、いくら松脂を塗ろうとツルツルすべる。来箱のときに外を通る救急車のサイレンが聞こえて、客演の先生が苦笑することもしばしばだった。
火災報知機をつける意味がないくらいボロボロの木造で、ツタは這い、窓は破れ、玄関に至ってはドアがない。だから風が容赦なく吹き抜け、気温は外気と同じ。
でも、ドアがないということは、今思い返せばとても大切なことだった。
集会所は、24時間、誰でも受け入れる場所だった。
そして、いつでも戻って来れる場所だった。
たまにヘンなおじさんおばさんが現れても適当に話を合わせ、ヤギやニワトリが闊歩していても、カメラを構えた人が入ってきても知らんぷり。オケをはるか昔に引退したOBさんがふらっと立ち寄って弾いていったり、旅行に行ったから、とおみやげを置きに来てノートの書き込みに笑ったり。先輩会に毎年あれだけたくさんのOBOGが集まるのも、集会所という帰る場所があったからだと思う。
ひさしぶりに集まったから、と深夜にカルテットが始まり、棚の楽譜をあさっては夜通し弾き続ける。いつでも楽器が弾けて、たいてい仲間がいる。自分にとっては、それが集会所の風景だ。
もうひとつ。
集会所のお別れ会の前夜だったか、これで弾き納め、と深夜に集会所に行くと、ベースの子がふたり。最後に集会所の音を教えようと、後輩を連れてきたのだという。ベースのあいだでも、楽器が鳴らなくなったら集会所に行って弾くといい、という言い伝えがあったそうだ。うれしくなってつい、奥の空間と表のチェロの場所と廊下とでは、それぞれ鳴りやすい音の質が違うこと、それを生かすと自然に楽器の鳴り方が変わること…などとやっているうちに朝になっていた。
集会所の音の記憶もまた、大切なオケの財産だと思う。
身体や楽器を通して、新しい集会所で弾く人たちに伝えていってほしい。
そして、願わくば、新しい集会所もまた、人の集まる素敵な場所になりますように。
ヴァイオリンパート員(2010年度入団)
集会所
どう考えたって楽器を弾くべき場所じゃない
だって
夏はどうしようもなく暑い 汗が目に入って痛かったり
虫除けスプレーをものともしない大量の巨大な蚊のせいでいたるところが痒い
冬はどうしようもなく寒い 手が悴んでスマホ操作だっておぼつかないのに
細かいパッセージなんて弾けっこない
雨の日は湿気だらけ 譜面台の上の楽譜がビヨビヨになるくらい
弓の毛はハリがなくなってくるし なんとなく楽器も重い
よく響く廊下でみんな好き勝手弾くから うるさくって自分の音がうまく聴き取れないし
夜は楽譜すらよく見えないくらいに暗い
そんな集会所
どう考えたって楽器を弾くべき場所じゃない
他大学の誰かに言われた
「こんなに人がたくさんいるところで練習できない」って
でも何故か人が集まるステキな場所なんだって?
そんなの当たり前でしょう
下宿生にとっては こんな劣悪な環境でも
たった一つの練習場所
京大オケで生き残っていくにはここへ通うしか、ない
しかたなく、集会所に通った
授業なんかよりよっぽどたくさんの時間を集会所で過ごした
ここしか行くべき場所がなかったから
そう思っていたけれど
プレハブに移って なんとなく寂しいのは何故だろう
団員の汗と涙を吸い込んだ木のぬくもり
誰が練習に来ているのか一目で分かる長い廊下
誰もいない早朝のピンと張り詰めた空気
真夜中薄暗い廊下で練習していると何故か得られる優越感
集会所で 大泣きして
集会所を 飛び出して
また 集会所に戻ってくる
その時に感じたあのどこかホッとした気持ちは
もう味わえないのかもしれない
「私はひとりじゃない」と思わせてくれる場所が
気づかぬうちに、京大オケからひとつ消えてしまったのかも、しれない
チェロパートOB(1977年度入団)
私が京大交響楽団に在籍したのは1977年4月から1981年3月まで。記憶の断片ではあるが、当時を思い出してみる。
その当時は弦分や総練はBOX(焼失前の木造BOX)で行っており、集会所で練習するのは客演指揮者が来箱するときだけであった。集会所の2階で客演指揮者をお迎えする前の張りつめた緊張感は未だに忘れられない。普段の練習が狭いBOXだったため、客演指揮者の総練になるとギャラリーが多かったのも緊張感に拍車をかけていたのかもしれない。
カルテットの練習にはBOXの真向かいにあった集会所1階のグリークラブのBOXを使わせてもらっていた。鍵の番号は団員はみんな知っており、勝手に開けて練習に使っていたが、今思えばのんびりしていた時代だったかもしれない。カルテット練習中にグリークラブ団員が入ってきても何も言われなかった。
集会所1階の東端には「南食堂」があった。営業しているかどうかわからない店構えであったが、ドアを開けて中に入ると、いつもおばちゃんが「いらっしゃい。何にします?」と声をかけてくれた。しかし、私が行ったときには他の客がいたことはなかった。どんなメニューがあったかは今では記憶にないが、私はいつも定食(?)を食べていた。これはお皿の上に大きなメンチカツときざみキャベツが乗っているだけのものであり、それにご飯とみそ汁がついているというシンプルなものである。しかし、このメンチカツがとてもおいしかったことを覚えている。時間はふんだんにあったがお金がなかった学生時代の思い出である。
最後に
集会所は、京大オケの音楽を育んでくれた場所であるとともに、そこで楽器を弾いていたそれぞれの団員の音楽を育んでくれた場所でもあります。この場所は、多くの団員たちにとって、京大オケにおける帰るべき家のような存在でした。この記事を通して、私たちの集会所への思いが、少しでも伝われば幸いです。