帝政ロシアで活躍した作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Пётр Ильич Чайковский,
1840-1893)は、彼の創作活動の転換点となった《交響曲第4番ヘ短調》を1877年に書いて以降、
長い間交響曲の作曲から距離を置いていました註 。《交響曲第5番》は、彼が11年ぶりに満を持し
て書いた番号付き交響曲でした。
1888年6月に着手された交響曲は2ヶ月あまりで完成され、11月5日にサンクトペテルブルクで
作曲者自身の指揮のもと初演されたものの、賛否両論の結果に終わりました。
《交響曲第5番》を作曲した1888年の正月、チャイコフスキーは同時代を代表するドイツの大作
曲家ブラームス(Johannes Brahms, 1833-1897)とライプツィヒで対面を果たしています。チャイ
コフスキーはその日の夜にブラームス自身の指揮で《ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ
短調》を聴き、弟モデスト(Модест Ильич Чайковский, 1850-1916)に「退屈」と書き送っています。
当初は必ずしも良好な関係とはいえなかった2人ですが、1889年3月15日に行われた《交響曲
第5番》のハンブルク初演を巡って興味深い逸話が残されています。
チャイコフスキーがハンブルク滞在中に泊まったホテルに、偶然にも自作の指揮のため訪れた
ブラームスも宿泊していました。チャイコフスキーの滞在とその目的を知ったブラームスは予定よ
り滞在を一日延長し、ハンブルク初演を聴きました。チャイコフスキーの自信無さげな指揮のせい
もあってか聴衆からの評判は芳しくなかったようですが、ブラームスは「フィナーレを除くとすべて
気に入った」と、気難しい彼にしては好意的な感想を述べています。また、チャイコフスキーも弟宛
ての手紙の中でブラームスの人柄を評価しており、このハンブルク初演を機に2人が意気投合し
た様子が窺えます。
実はチャイコフスキーはこの作品をあまり好んでおらず、一時は火に投げ込もうとすら考えたよう
です。しかし、大指揮者ニキシュ(Arthur Nikisch, 1855-1922)による各地での演奏が次々と成功
を収めて以来、現在に至るまでチャイコフスキーの代表作の1つとして親しまれています。
この交響曲は4つの楽章から成ります。作曲者が「運命への絶対服従……疑念、嘆き」と形容し た第1楽章、甘美さと哀愁を併せ持つ第2楽章、優雅で軽やかなワルツの第3楽章、エネルギッ シュな第4楽章と、各楽章はそれぞれ多彩な性格を持っています。その一方で、第1楽章冒頭の クラリネットによる主題(通称: 「運命の主題」)が形を変えて他の全ての楽章に姿を現します。曲調 の移ろいとともに次々と変貌を遂げていく主題にも注目してお楽しみください。
註: ただし、例外として1885年に標題付きの《マンフレッド交響曲》が書かれている。
文責:池田智之(Va.4)