L.v. ベートーヴェン  交響曲第1番 ハ長調 Op.21

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven, 1770-1827)はドイツのボンに生まれウィーンで活躍した作曲家です。ハイドン、モーツァルトの後を継いでウィーン古典派を頂点に導くとともに、ロマン派音楽の先駆とも言われています。交響曲、弦楽四重奏曲、ピアノソナタを中心とする彼の作品は、後世の音楽家たちに計り知れない大きな影響を与えています。

 今でこそ音楽史上の金字塔として名高いベートーヴェンの9曲の交響曲ですが、若き日の彼はこのジャンルに対してかなり慎重な態度をとっていました註1。もっとも、交響曲への関心は早くからあったようですが、20歳ごろから度々試みてはいずれも頓挫しています註2。そして28歳になった1799年の秋にようやくこの作品の創作が本格化し、同年末または翌年の初めに完成されると、1800年4月2日には作曲者初の主催演奏会のトリとして初演されることになりました。

 ピアニストとして、そして作曲家としても知名度が上がっていたベートーヴェンの初めての交響曲ということで前評判は上々でした。しかし、同じ演奏会で当代人気のウィーンの名手たちによって公開初演された《七重奏曲変ホ長調Op.20》註3に聴衆の注目が集まってしまい、その後の交響曲の初演は大成功とは言い難い結果となりました。当時の音楽新聞は演奏の難しさや管楽器の多用、演奏者側の問題点を指摘しています。

 ただし、その音楽新聞は交響曲の高度な芸術性や豊かな楽想を高く評価しているほか、後々聴衆からの人気も獲得するようになりました。初演の翌年に楽譜が出版されたのを皮切りに、以降立て続けに室内楽編曲版が出回るようになり、音楽愛好家たちの間で親しまれました註4

 この交響曲にはハイドンやモーツァルトの影響もありますが、ベートーヴェンならではの革新性も持ち合わせています。意表を突くような冒頭の和音、主題の要素を余すことなく用いた展開技法、第2楽章でのフーガ風の主題提示、スケルツォ風メヌエットの導入、そして遊び心満載の終楽章……。これらの数々の挑戦はいずれもその後のベートーヴェン作品にも応用されていきます。

 例を挙げてみましょう。誰もが知る『運命』こと《交響曲第5番ハ短調Op.67》の第1楽章では、冒頭の動機やそれを変形したものを執拗なまでに積み重ねることで劇的な曲想を形作っています。また、我が国では年末の風物詩となっている『第九』こと《交響曲第9番ニ短調Op.125》を始めとする晩年の作品では、フーガとソナタという2つの形式が融合されますが、《交響曲第1番》の第2楽章の冒頭にその萌芽を見て取ることも出来るかもしれません。

 プロアマの別を問わず、また担当楽器を問わず、音楽家にとってベートーヴェンの作品への挑戦は特別な意義を伴います。特に、若かりし頃の楽聖の野心作であるこの作品を学生が演奏するとなると尚更です。先述のような「ベートーヴェンらしさ」にも注目しつつ、気迫に満ちた新鮮な音楽をご堪能ください。

 文責:池田智之(Va.5)

註1: 《交響曲第1番》は彼が29歳のころに発表されたが、これは当時としては遅い部類だった。同じ年齢でハイドンは交響曲を数曲、モーツァルトに至っては40曲以上書いている。
註2: このうち1795年以降のものは《交響曲第1番》の素材として用いられている。
註3: 厳密には、前年12月20日に非公開試演されている。
註4: 当時は室内楽編曲版の出版が盛んに行われた。ベートーヴェンの場合は他者による編曲がほとんどだったものの、《交響曲第2番ニ長調Op.36》や《七重奏曲》のピアノ三重奏版、《ピアノソナタ第9番ホ長調Op.14-1》の弦楽四重奏版など作曲者自ら手掛けた例もある。

〈主要参考文献〉
[1]『作曲家別名曲解説ライブラリー③ ベートーヴェン』音楽之友社(1992)
[2]石多正男『交響曲の生涯 誕生から成熟へ、そして終焉』東京書籍(2006)
[3]大崎滋生『ベートーヴェン 完全詳細年譜』春秋社(2019)
[4]平野昭『作曲家 人と作品 ベートーヴェン』音楽之友社(2012)
[5]ベートーヴェン《交響曲第1番》全音楽譜出版社(2016) (解説: 諸井三郎、1956)