„zerginge in Dunst das heilige römische Reich, und bliebe gleich die heilige deutsche Kunst!“ 「たとえ神聖ローマ帝国が露と消えようとも、神聖なるドイツの芸術は不滅である!」 (第3幕第5場)
19世紀のドイツで活躍した作曲家リヒャルト・ヴァーグナー(Richard Wagner, 1813-1883)の歌劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》を締めくくるのは、主人公ザックスのこのような言葉です。今回演奏するのはこの劇作品が始まる前に演奏される「前奏曲」であり、この前奏曲が最終場で拡大されて繰り返されこの約4時間30分にもわたる巨大な劇作品は幕を閉じます。この前奏曲は、いわば劇作品全体の「あらすじ」のような役割を果たしているのです。それではまず《マイスタージンガー》の筋書きを説明したいと思います。
舞台は16世紀のニュルンベルク。この芸術の街では、とりわけ歌の上手な者たちが「マイスタージンガー Meistersinger」(英語でいうmasterとsingerを組み合わせた語)と呼ばれ、人々の尊敬を集めていました。そこにひとりの若い騎士ヴァルターが現れます。ヴァルターはとあるマイスタージンガーの娘エーファと恋に落ちますが、エーファは聖ヨハネ祭の日におこなわれる歌合戦の勝者の妻となることが決まっていました。そこでヴァルターは歌合戦に臨もうとします。ところが、この街にはマイスタージンガーたちによって定められた歌の「規則」が存在し、この歌合戦に参加し勝利するためにはこの「規則」を習得していなければなりませんでした。生来の歌の才をもつものの「規則」を知らないヴァルターに、「規則」を教えながらもその独創性を生かした歌を作る手助けをするのが、この物語の主人公ザックスです。
マイスタージンガーたちのリーダー的存在であり、最も人々から敬愛されていたこのザックスですが、実は彼もエーファに思いを寄せていたのでした。しかしザックスは年齢や立場の違いを考え、自身は身を引き、エーファとヴァルターを結びつけようとします。その一方で、市の書記官ベックメッサーはエーファの父親が裕福であることからエーファを手に入れようとしますが、ザックスの妨害もあり、彼の企ては失敗に終わります。そして優れた歌を完成させたヴァルターは歌合戦に勝利、エーファと結ばれ、すべてを導いたザックスは人々の称賛を受けて、この物語は幕を閉じます。
このようにこの物語は、ひとりの娘をめぐる3人の男性を中心に進んでいきますが、同時に芸術論や政治論などの問題も絡み、極めて重層的な構造をなしています。次に「第1幕への前奏曲」の説明に入っていきます。この作品は、大きく分けて4つの部分からなります。
①【堂々たる主題の提示部】
この部分で示されるモチーフの多くは、ニュルンベルク(=ドイツ)の芸術の守護者たるマイスタージンガーたちを表しています。その堂々たるさまは、マイスタージンガーたちの威厳を表しているようですが、ここにはヴァーグナーの興味深い仕掛けがあります。マイスタージンガーたちは彼らの芸術を守るためにたくさんの規則を作っているのですが、その規則の複雑さのために「芸術は硬直化し生命を失ってしまっているのではないか?」という問いが投げかけられる場面が劇中(第1幕第3場)にあります。それをふまえれば、マイスタージンガーたちを表すこの音楽は硬直化した芸術として聴くこともできるのです。しかし、当然のことながらただ単につまらない音楽というわけではありません。このマイスタージンガーの音楽には「増三和音」と呼ばれる特殊な和音が非常に巧妙に使われています。劇中で明らかになるのですが、この「増三和音」が表しているのはマイスタージンガーのひとりである主人公ザックスなのです。ザックスは、硬直化したマイスタージンガーたちの芸術に風穴を開けようとする騎士ヴァルターの才能を誰よりも認め、支援する人物です。つまり、このマイスタージンガーの音楽には「硬直化した芸術」とそれに対する「新しい芸術」の両方が示されているのです。この両義性こそヴァーグナーの音楽の醍醐味と言えるでしょう。
②【叙情的な主題の提示部】
エーファに恋心を抱くヴァルター。歌の才能を持つ彼は、しかしマイスタージンガーたちの規則を知りません。彼の歌う歌は情熱的だが、規則に従っていないため散漫で、はっきりと記憶にとどめておくことができない。規則は「青春の恋の追憶をはっきりと残し、それによってふたたび青春を思い出すため」(第3幕第2場)にあるのです。主人公ザックスは、この若い騎士ヴァルターに歌の規則を教え、そこからひとつの歌が生まれます。規則と感性が最も幸福な関係にあるこの歌こそ、②【叙情的な主題の提示部】で演奏される音楽、すなわち「聖なる暁の夢解きの歌」(第3幕第4場)なのです。
③【喜劇的な展開部】
市の書記官であるベックメッサーもエーファを手に入れようと試みますが、ザックスの妨害もあり失敗、歌合戦では聴くに堪えない歌を歌ってしまうという醜態を演じます。このベックメッサーに対する嘲笑の声——「もうじき彼は絞首台に吊るされるよ!」(第3幕第5場)——こそ、③【喜劇的な展開部】で演奏される音楽なのです。実は、このベックメッサーという登場人物には当初、「ハンスリヒ」という名が与えられていました。これはヴァーグナーと敵対していた批評家であるエドゥアルト・ハンスリックへの明らかなあてこすりでしょう。またヴァーグナーはハンスリックをユダヤ人と見ていたため、この作品に描かれるベックメッサーの醜態は、ヴァーグナーの反ユダヤ主義のあらわれと見ることもできます。
④【壮麗な再現部】
これまでに提示された要素が同時に鳴り響き壮麗なクライマックスを築き上げます。しかしそれを低音から支えているのは、③【喜劇的な展開部】において示された音楽、歌に失敗した「ユダヤ人」ベックメッサーを共同体から疎外した民衆の嘲笑の声なのです。ここには神聖なるドイツの芸術はユダヤ人の排除によってはじめて達成されるということが音楽的に暗示されています。共同体というものは常にそこから漏れ出る者を疎外することによって成り立っています。仲良しグループが成立しているということは、そこに入れない人が存在しているということを常に意味しているのです。「さあ抱き合え、幾百万の人々よ Seid umschlungen, Millionen!」と博愛主義を歌い上げるベートーヴェンの《第九》(《交響曲第9番d-Moll Op.125》)の第4楽章には次のような歌詞があります。
"ひとりの友の友となりえた者、かわいい妻を勝ち得た者は、この歓喜に加わるがよい!
それをなし得なかった者は、泣きながらこの輪から立ち去るがよい!"
《第九》のこの歌詞に着目したのは20世紀の思想家テオドール・アドルノです。この表現は「抱き合え!」を強調する役割を果たしているのですが、ここには共同体の持つ排他性が刻みこまれています。
アドルノはまた「アウシュビッツの後に詩を書くことは野蛮である Nach Auschwitz ein Gedicht zu schreiben, ist barbarisch.」という有名な言葉を残しました。第三帝国の時代、アドルフ・ヒトラーによって《マイスタージンガー》の上演は国家行事となり、1935年にはニュルンベルクのナチ党党大会でも上演されました(同年には反ユダヤ法として悪名高い「ニュルンベルク法」が成立しています)。ヒトラーは人々を興奮の渦に巻き込むヴァーグナーの音楽の魔力に気づき、それを国民の扇動に利用したのです。アドルノの友人であったヴァルター・ベンヤミンの言葉を借りれば「政治の美学(芸術)化 Die Ästhetisierung der Politik」とも呼べるこうしたナチ党の政策からは、「第一帝国たる神聖ローマ帝国は露と消えたが、神聖なるドイツの芸術=第三帝国は不滅である」という思想が浮かび上がってきます。近年では、こうした事情を鑑みてか、追放されたはずのベックメッサーを再登場させ、ザックスと和解させるという演出がなされることもあります。しかし、この作品に刻印された暗い過去は既にこの作品の一部なのであって、それを無視することはできません。音楽には感情によって人々を結びつける力があります。これは時に「絆」と呼ばれることもありますが、同時にそれは「全体主義」と紙一重であるということを忘れてはなりません。人々が同じ方向を向くことの恐ろしさをこの作品は教えてくれているのです。《第九》とヒトラーが重なり合うこの《ニュルンベルクのマイスタージンガー》という作品こそ、われわれの生きる近代社会の光と影を最も強烈に映し出しているのだと言えるでしょう。
文責:岡本雄大(Vc.6)
1) 本文中の引用の日本語訳はすべて筆者によります。その際、《マイスタージンガー》からの引用については渡辺護氏、井形ちづる氏、三宅幸夫氏/池上純一氏の訳を、「第9」からの引用については土田英三郎氏の訳を参照しています。また《マイスタージンガー》からのテクストの引用は1983年にSchott社から出版された„Faksimile der Reinschrift des Textbuch von 1862“に拠っています。
〈主要参考文献〉 [1]Adorno, Theodor W.:Versuch über Wagner. Berlin: Suhrkamp Verlag. 1952.——— : Beethoven. Philosophie der Musik. Fragmente und Texte. Berlin: Suhrkamp Verlag. 1993. [2]Benjamin, Walter: Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit, Gesammelte Schriften, Bd. I-2. Frankfurt: Suhrkamp Verlag. 1991. [3]Dahlhaus, Carl: Richard Wagners Musikdramen. Orell Fuessli Verlag. 1985. [4]McClatchie, Stephen: Performing Germany in Wagner’s Die Meistersinger von Nürnberg. The Cambridge Companion to Wagner. New York: Cambridge University Press. 2008.