ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven, 1770-1827)の9曲の金字塔以降、交響曲はクラシック音楽の一大分野として君臨し、多くの作曲家が数々の力作を遺してきました。しかしその中で、フランス人による作品は意外に少なく、国際的に頻繁に演奏されるのはベルリオーズ(Hector Berlioz, 1803-1869)の《幻想交響曲》、フランク(César Franck, 1822-1890)の《交響曲ニ短調》、そしてサン=サーンス(Camille Saint-Saëns, 1835-1921)の《交響曲第3番》くらいでしょう。ここでは、そんな《交響曲第3番》の成立過程や内容について深掘りしてみたいと思います。
1835年にパリで生まれたサン=サーンスは、3歳になる前にはピアノを弾き始め、4歳で作曲も始めました。11歳でモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)やベートーヴェンの協奏曲を弾き絶賛され、神童としての名声を縦(ほしいまま)にしました。
オルガニストとしても、18歳から教会のオルガニストとしての職を得るようになり、後には約20年(1857年-1876年)の長きにわたってマドレーヌ寺院のポストに就きました。その腕前は、リスト(Franz Liszt, 1811-1886)が「世界最高」と讃えるほどでした。また、交響曲の作曲にも熱心で、24歳(1859年)までに4曲書いています[1]。グノー(Charles Gounod, 1818-1893)やビゼー(Georges Bizet, 1838-1875)も同時期に交響曲を作曲しましたが、それからサン=サーンスが本作を作曲するまでの四半世紀にわたって、フランス国内で交響曲を書く気運は低迷することになります。
さて、天才として順風満帆の人生を歩んでいたサン=サーンスにも苦難の日々が訪れます。1870年に勃発した普仏戦争でフランスはプロイセンに圧倒され、ナポレオン3世(Napoléon III, 1808-1873)によるフランス第二帝政が崩壊しました。翌1871年にはヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世(Wilhelm I, 1797-1888)がドイツ皇帝として即位し、領土の割譲や多額の賠償金を含む講和が結ばれました。自治政府パリ・コミューンによる蜂起も重なり、フランスにとっては内憂外患の時代でした。
こうした屈辱的状況から、フランス国内にナショナリズムの波が広がりました。その事例の1つが1871年のフランス国民音楽協会設立です。これは「ガリアの芸術 ars gallica」を旗印に、フランス人にのみ入会を認め、存命のフランス人作曲家の作品だけを演奏し、フランスの作曲家を奨励するための組織で、サン=サーンス、フランク、フォーレ(Gabriel Fauré, 1845-1924)など錚々(そうそう)たる面々によって創立されました。サン=サーンスは協会設立時には副会長、次いで翌1872年には会長に就任しました。
協会内には似て非なる2つの派閥がありました。
すなわち、サン=サーンスやフォーレによるフランス固有の伝統を重んじる一派と、フランクとその弟子や信奉者(フランキスト)らによる国際的伝統に重きを置く一派です。やがて両者の間の亀裂は深まることになります。
この作品は編成・構成の双方において特徴的といえるでしょう。
まず編成については、我が国のみならず欧米でも『オルガン付き』や『オルガン交響曲』などの通称で親しまれていることからも、オルガンを用いた点が特徴の1つであることはいうまでもありません。もっとも、オルガンを用いた交響曲としてはメンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809-1847)の《交響曲第2番》やリストの《ファウスト交響曲》、《ダンテ交響曲》などの先例があり、本作の前年にもチャイコフスキー( Пётр Ильич Чайковский, 1840-1893)が《マンフレッド交響曲》でオルガンを効果的に使用しています。その中でも本作は、絶対音楽の中で使用した点で画期的であったといえます。また、ピアノのソロや連弾が第2楽章の随所で花を添えている点も特徴的で、既にピアノ協奏曲を4曲書き上げていたサン=サーンスの名人芸的な書法が光ります。オーケストラ自体の編成は当時の交響曲としては大きい3管編成[3]で、グラントペラ(grand opéra)を思わせる壮大な響きから室内楽的な澄んだ響きまで多様な表現を実現しています。
構成については異例の2楽章制を採っており、古典的な4楽章制交響曲の前後半それぞれ2楽章を融合したような形式となっていますが、本作のように楽章の融合によって楽章数を減らすことは後続の交響曲作家の間である種のトレンドとなります。例えば本作に感化されたフランクは自身の《交響曲ニ短調》で4楽章制交響曲の中間楽章2つを融合する形で3楽章制を採っており、やがてフランスの後進が多くの3楽章制交響曲を書くようになりました[4]。サン=サーンスの影響の有無は不明ながら、こうした傾向は北欧やロシアにおいても見られます[5]。
構成面でのもう1つの特徴として、循環形式[6]が徹底的に用いられている点が挙げられます。第1楽章の前半と後半それぞれの主要主題やそれに由来する動機が全曲を通して形を変えながら至る所に散りばめられています。循環形式を駆使して13曲の交響詩を書いたリストの影響が指摘されていますが、初演直後にリストが亡くなったこともあり、本作が出版される際には「フランツ・リストの想い出のために」という献辞が添えられています。
では次に、楽曲の流れをより詳細に見ていきましょう。
序奏付きのソナタ形式による前半部分と、変奏曲形式による緩徐楽章風の後半部分から成ります。
短く静かな序奏で主題の断片が隠見した後、弦楽器によって第1主題(以下、第1循環主題)が提示されます。木管楽器による主題の反復の後、めまぐるしい転調を経て、柔和な変ニ長調の第2主題が現れます。この第2主題はやがて全合奏で高らかに繰り返されます。
続く展開部では主に第1主題が扱われます。転調を繰り返しながら、寄せては返す波のように主題が繰り返され、徐々に緊張感を高めます。
再現部は提示部がいくらか短縮された形をとっていますが、両主題ともに提示部とは異なった表情を見せます。そしてコーダでは序奏が再現されますが、謎めいた和声進行で動きが止まります。
ここでオルガンが穏やかに沈黙を破り、そこに弦楽合奏が新たな循環主題(以下、第2循環主題)を重ねたところで楽章の後半に入ります。細分化された弦楽合奏によるオルガンの模倣や、クラリネット、ホルン、トロンボーンという異色な組み合わせによるユニゾンなど、音色についても様々に工夫が凝らされながら曲は進みます。主題はまず弦楽とオルガンのみによって変奏されます。
第1循環主題による間奏はやがて不安定な和声を帯びるようになりますが、再び第2循環主題が変奏されます。この変奏も最初は弦楽とオルガンのみによって進められますが、やがて木管楽器が相次いで加わり、頂点に達します。そして変ニ長調とホ短調の和音が交錯する中、楽章は静かに閉じられます。
前半はスケルツォ、後半は序奏付きソナタ形式による終曲となっています。
劇的な主題に始まり、次々と新しい動機が現れますが、これらはいずれも2つの循環主題から派生したものです。
トリオ(中間部)ではテンポが上がり、ピアノのパッセージやシンバル、トライアングルが加わり、軽やかな曲調になります。そしてそんな中でも、循環主題を余すことなく用いる点は徹底しています。やがて小休止に至り、主部がほぼそのまま繰り返されます。
コーダに入ると、トリオの祝祭的な雰囲気と厳かなカノンが共存するようになります。このカノンの主題も第2循環主題に基づくもので、同様のカノンは楽章後半にも現れます。そしてヴァイオリンとヴィオラによる静かな経過部を経て、第1循環主題が再現され、半休止に至ります。
オルガンによる神々しい和音で楽章の後半が幕を開けると、程なくして弦楽によるコラールがピアノ連弾を伴って現れます。そしてコラールは華やかに繰り返されます。
この後、フーガ風の第1主題と落ち着いた第2主題が提示され、束の間の展開部の後、第2主題が再現されます。またこの間、先述の第2循環主題によるカノンが2度現れます。コーダに至ると、テンポ変化や拍子の変化が繰り返され、更なる盛り上がりを見せます。そして最後は、ティンパニの連打で幕を閉じます。
亡き友リストに捧げられ、発表時に「フランスのベートーヴェン」と評されたサン=サーンスの《交響曲第3番》。華麗な響きは勿論、古典主義者サン=サーンスの職人技にも注目しつつ、是非演奏をお楽しみください。
文責: 池田智之(Cond.6)
注釈
[1]サン=サーンスの交響曲は第1-3番と番外2曲の計5曲が遺されており、このうち《第3番》以外の4曲は若年期に集中して書かれた。
[2]サン=サーンスやフランクの直後にはショーソン(Ernest Chausson, 1855-1899)、マニャール(Albéric Magnard, 1865-1914)、デュカス(Paul Dukas, 1865-1935)が相次いで交響曲を作曲し、20世紀になってもルーセル(Albert Roussel, 1869-1937)、オネゲル(Arthur Honegger, 1892-1955)、ミヨー(Darius Milhaud, 1892-1974)、デュティーユ(Henri Dutilleux, 1916-2013)らによる交響曲群が続いた。
[3]奇しくも本作の前後には3管編成による交響曲を書く作曲家が続出している。現在知られている例には、先述の《マンフレッド交響曲》やブルックナー(Anton Bruckner, 1824-1896)の《交響曲第8番》(初稿は1887年作曲)などがある。
[4]ショーソンとデュカスはそれぞれ唯一の交響曲を3楽章制で書いている。オネゲルに至っては全5曲の交響曲を一貫して3楽章制としている。また、フランス国外ではラフマニノフ(Серге́й Рахма́нинов, 1873-1943)の《交響曲第3番》は形式面においてフランクに近い。
[5] シベリウス(Jean Sibelius, 1865-1957)はともに3楽章制の《交響曲第3番》で後半2楽章、《交響曲第5番》で前半2楽章を融合し、最後の《交響曲第7番》では4楽章全てを有機的に統合した単一楽章制に至っている。ニールセン(Carl Nielsen, 1865-1931)も同様の単一楽章による《交響曲第4番『不滅』》や2楽章制の《第5番》を遺している。スクリャービン(Алекса́ндр Скря́бин, 1872-1915)の5曲の交響曲の楽章数は順に6、5、3、1、1となっており、このトレンドを象徴する例といえよう。
[6]楽章を越えて同じ主題(循環主題)を用いることで全曲を統一する形式。