この曲は19世紀イタリアの初期ロマン派作曲家ジョアキーノ・ロッシーニのオペラ『セビリアの理髪師』の序曲である。このオペラの原作は18世紀フランスの喜劇作家ボーマルシェのいわゆる「フィガロ三部作」と呼ばれる『セビリアの理髪師』、『フィガロの結婚』、『罪ある母』の第一作にあたる。製作依頼が来たのはロッシーニ24歳の時で、過去に書いた自作曲から出来の良いものを選び出して随所に利用することでわずか数週間のうちに完成させたという。当時のオペラにおいては自作曲の転用は珍しくなく、今回演奏する序曲もロッシーニが以前作った『パルミーラのアウレリアーノ』における曲を再使用したものになっている。したがってオペラの序曲としては珍しく、音楽が本編の内容とあまり関係のないものとなっている。しかし、曲の雰囲気を理解するうえで劇の内容を知っておくのは無意味ではあるまい。まずは、作曲者と劇のあらすじについて述べておく。
ジョアキーノ・ロッシーニは1792年にイタリアのペーザロで生まれ14歳からボローニャ音楽学校で学んだ。18歳で最初のオペラを作曲し、20歳の時にオペラ・ブッファ『試金石』で成功を収めてその名が知られるようになる。その後ヴェネツィアの名門フェニーチェ座から依頼を受けて本格的なオペラ・セリア『タンクレーディ』を書きこちらも大成功を収めオペラ作家としての地位を盤石なものにした。このような絶頂期に『セビリアの理髪師』も書かれている。しかし37歳で『ウィリアム・テル』を発表したのを最後にオペラの作曲活動から引退し、以降76歳で病没するまで作曲は続けつつ社交家、美食家としても活動した。
舞台はスペイン南部の都市セビリア。町の広場で、アルマヴィーヴァ伯爵(以降伯爵と表記)が医師バルトロの屋敷のバルコニーに向かって愛の歌を歌う。彼は以前プラドの町で一目惚れした娘に対し求婚にやってきていたのだ。そこにバルトロ邸に出入りしている理髪師のフィガロが登場し、伯爵に娘の名がロジーナであるということや、医師バルトロはロジーナの叔父でその後見人であり、財産目当てで彼女との結婚を目論んでいることを教える。その最中、バルコニーにロジーナが出てきて手紙を落とす。手紙には伯爵に心惹かれておりその素性を知りたいという事と後見人の監視が厳しく外出できない旨が書かれていた。伯爵は再びバルコニーに向かって歌い本来の身分をかくして「リンドーロ」という偽名を名乗って、ロジーナへの愛を示す。さらにロジーナに直接会うべく何とかしてバルトロ邸に入れないかとフィガロに協力を求める。フィガロは酔った軍人に変装して宿泊証を持って乗り込むことを提案する。 一方バルトロ邸では音楽教師のバジリオがバルトロに対してロジーナとの結婚を狙っている伯爵がこの町に来ていると告げ、焦ったバルトロは急いで結婚契約書を作るようバジリオに依頼する。ロジーナはリンドーロ(伯爵)に宛てた手紙を書き、フィガロにそれを託す。 その夜、酔った軍人に変装した伯爵がやってきて宿泊証を見せ、一夜の宿を願い出る。宿泊割当免除証を持っていたバルトロは伯爵を追い返そうとして押し問答になるが、どさくさに紛れて伯爵はロジーナに手紙を渡す。その後バルトロに対して逆上した伯爵が暴れだしたため騒ぎが大きくなり、巡回中だった軍隊がバルトロ邸に入ってくる。伯爵は兵隊に本当の身分をこっそり明かし、事は一旦収まる。
宿泊割当免除証により、バルトロ邸の潜入に失敗した伯爵。しかしバジリオの弟子の音楽教師「アロンゾ」に変装し再びバルトロ邸を訪問する。怪しむバルトロに対し、アロンゾ(伯爵)は病気で寝込んだバジリオの代理でやってきたと言い、さらにロジーナがリンドーロ(伯爵)にあてて書いた手紙をあえてバルトロに渡すことで信頼を得、ロジーナに会うことに成功する。 しかし、間の悪いことにバジリオ本人がやってきてしまい、慌てた伯爵は彼を無理やり追い返す。場を乗り切った安堵感から変装していることを口に出してしまった伯爵は、正体がばれて追い出されてしまう。バルトロはバジリオを呼び戻して事の真相を問いただすと、アロンゾなどという弟子は存在せず、変装していたのは伯爵だという事が判明したため、早急にロジーナとの結婚のための公証人を読んでくるようバジリオに依頼する。さらにロジーナにアロンゾ(伯爵)から渡された手紙を見せたことでロジーナはリンドーロ(伯爵)に裏切られたと思い、復讐のためにバルトロとの結婚を承諾する。 その夜、嵐の中、伯爵とフィガロは梯子を使ってバルコニーからバルトロ邸に乗り込むという強硬手段をとる。無事に潜入は成功するがロジーナはバルトロに手紙を渡したリンドーロ(伯爵)のことを責める。リンドーロ(伯爵)は弁明し、さらに自分はアルマヴィーヴァ伯爵だと本来の身分を明かしたことで誤解が解ける。伯爵はバジリオに賄賂を贈り、兵士たちを連れてきて最後まで抵抗しようとするバルトロには、ロジーナの財産は必要ないといったことで、すべてが丸く収まる。
前置きがかなり長くなってしまったが、本題の楽曲解説に入りたい。先にも述べたが、この曲はもともと違うオペラのものを使いまわしているため『セビリアの理髪師』としての序曲の自筆譜が残っておらず、様々な版が存在する。今回のプログラムでは『パルミーラのアウレリアーノ』の自筆譜に残されたものと類似している原典版を演奏する。序曲の形式は序奏とソナタ形式の主部からなる。
序奏部はアンダンテ・マエストーソ、ホ長調、四分の四拍子。fないしffのユニゾンによる厳かな雰囲気で曲は始まるが、そのすぐ後にppで32分音符の刻みが入り、木管と1stバイオリンが穏やかなメロディーを歌う。この流れが冒頭二小節で目まぐるしく展開され、喜劇らしい滑稽さが演出される。そして1stバイオリンが2ndバイオリン以下弦四部のpizz.の流れに乗って美しい旋律を奏で、最後に冒頭の流れが再現されて序奏部が終わる。
続く主部はアレグロ・ヴィヴァーチェ、ホ短調、二分の二拍子。緊張感のある八分音符の刻みに乗ってバイオリン、ビオラ、フルートが第一主題を演奏する。
その後クレッシェンドで盛り上がっていきffで経過部に突入する。この部分は物語終盤で嵐の中、伯爵とフィガロがバルコニーからバルトロ邸に乗り込もうとするときにも使用される嵐の間奏曲と似たような雰囲気を持っている。八分音符の刻みは雨、バイオリンのメロディーは雷鳴と風といったところだろうか。そのまま荒々しく曲は進行し、それが少し収まると一転して楽天的な雰囲気の軽快な第二主題がオーボエ、次いでホルンによって演奏される。
ビオラとチェロが急き立てるように八分音符を刻み始めると、バイオリンと木管が四分音符で優雅に動き結尾部に突入するが、ここでは短いフレーズが繰り返されながら徐々に音量が上がっていく「ロッシーニ・クレッシェンド」と呼ばれる手法が用いられる。本来のソナタ形式ではこの後展開部が出てくるがこの曲では省略されて再現部に入り、再び第一主題が登場する。その後の経過部は省略されてホ短調からホ長調に転調。少し雰囲気が変わって第二主題が再登場する。結尾部もそのまま続いてコーダに突入し、華やかに曲が締めくくられる。
ロッシーニのオペラは歌手と歌唱に絶対的基盤を置いていたが、この様式はドラマや言葉の理解の阻害要因として批判の対象になり、結果として19世紀オペラの流れをドラマ重視へと導いた、というのが音楽史的評価である。逆に言えば劇中の曲を単独で取り出しても一つの楽曲として立派に成立し、解釈も自由であるため演奏会の前座として、この序曲は恰好であるといえよう。そもそもロッシーニの時代のオペラの序曲は単に開幕の合図にすぎず観客たちが着席するまでのBGM的側面も強かったという。もちろん曲そのものを味わっていただきたいのであるが、続くフォーレとブルックナーというそれぞれに個性の強い今回のプログラムにどのような物語性を持たせてみようかと想像を巡らす時間のBGMとしてこの序曲を聞いていただくのも良いのではなかろうか。
文責:小野竜輔(Vn.2)